大正三年(一九一四)七月二十八日に勃発した世界大戦は、北海道にも大きな影響を与えた。八月二十三日、日本はドイツに宣戦を布告し、ただちに青島およびドイツ領南洋諸島の攻撃を開始した。十月から十一月にかけてこれらの地域での作戦は終了し、以後七年十一月に大戦が終了するまで、日本は戦争末期に地中海に艦隊を派遣し、またロシア革命に干渉してシベリア出兵を行ったが、大戦の戦闘にはほとんど参加しなかった。その一方で、大戦によって交戦国の生産が減退し軍需品その他を必要とするようになると、日本はこれまでヨーロッパ商品の支配力の強かったアジア市場に進出し、交戦国であるヨーロッパ市場そのものへも進出するようになった。また、交戦諸国からの輸入が途絶したため、輸入品と競争的な関係にあった諸産業が勃興し、貿易の飛躍的な伸張と交戦国の海上輸送力の減退は、日本の海運業と造船業に異常なブームを呼び起こした。こうして日本は大戦の戦闘にはほとんど参加しなかったものの経済的利益を欲しいままにし、その結果日本資本主義は急速に発達し、本格的独占資本の形成をみるにいたった(新北海道史 第四巻)。
三年八月の開戦当初は、事態の進展に対する見通しも立たなかったので、輸出は停頓し物価は低落し一時は恐慌状態を呈したが、やがて戦局の推移によって四年から回復に転じ、五年にかけて好況がおとずれてきた。農産物を中心とする海外輸出が急激に増加し、農村は異常な好景気に包まれた。農産物のうち真っ先に好況に転じたのは青豌豆で、これに次いで菜豆類、澱粉の原料である馬鈴薯、亜麻が続いた。
札幌近郊農家も、従来から燕麦、玉葱、苹果(りんご)などの輸出で経験していたが、欧州大戦の影響で、五年末から六年にかけて突然の好景気を迎えた。五年中には道内の豆成金、澱粉成金、船成金にかわって「大根成金」、「豚成金」、「南瓜成金」の言葉さえ登場した。農家はさらに事業拡大を目論み、農地を買入れたり人造肥料資金の債務を負い、青豌豆、澱粉の市場価格に一喜一憂するのだった。
そのような影響からか六年の市街の景気は高揚し、子供の玩具でも五、六円の品がよく売れたり、女物洋傘、女片側帯などもよく売れたという(北タイ 大6・4・30)。またそういった現象は歳末にあらわれ、札幌の狸小路三丁目辺にある古着屋へ近郊の農家の人びとが家族全員のものを買い出しにどっと押し寄せ、このため古着商が繁盛したという(北タイ 大6・12・26)。
その一方札幌区内は、翌七年に開催される開道五〇年記念北海道博覧会のために、会場となる中島公園をはじめ、諸施設の建設が急ピッチですすめられ、電気軌道の敷設やら店頭装飾やらと、大工・左官たちは引っ張り凧で、博覧会景気で活気を帯びていた。それでも七年、はじめて戦時利得税(いわゆる成金税)が導入されてみると、成金の少ない札幌区といわれながらも、その総額は四万一九六〇余円、納税者数三六人にものぼった。うち一般の部では利得金額が一万円を超えたものが五人もおり、一番は小田良治(五番舘経営者)、次いで五十嵐三郎(旧五十嵐倉庫役員)、古谷辰四郎(米穀・雑貨商)、斉藤甚之助(味噌・醬油製造業)、五十嵐佐市(金銭貸付業)の順であった。このほか船舶部門では清水忠治郎が、また鉱業部門では今村伊作がトップの座を占めていた(北タイ 大7・10・24)。
こうした成金の中には、巨富を獲得するとともに、たちまちしっかりと地盤を築くものもいたが、多くは栄華の夢も、ほんの一時あっという間に泡のように消え去った。七年の札幌の花柳界が繁盛し、芸妓五〇〇人をこえる状況であったというから、成金で手にしたお金の行方が知られる。