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移民の流入

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 ヨーロッパの世界大戦が始まった翌年の大正四年(一九一五)以降、北海道は三度目の移住ブームが起こった。一度目は明治二十九年(一八九四)から三十一年であり、二度目は三十八年から四十二年である。いずれも前者は日清戦争の、後者は日露戦争の各時期と一致している。
 大正四年からの三度目の移住ブームは、八年に二万五〇一九戸、九万一四六五人という最大ピークを迎え、以後次第に減少傾向に向かった(近代北海道史研究序説)。
 七年の『北海タイムス』でみてゆくと、随時移民来道状況を報じ、一月から五月までに北海道鉄道管理局(以後北管局と略)が取り扱った上陸移民数でみた限りでも一万八五七一戸、三万八七〇〇人にも達し、六年に比較して四三五〇戸、一万五一三人も増加していることがわかる(北タイ 大7・6・18)。同年の場合、来道状況は一月から好調で、北管局は輸送のために青森函館間に臨時便を運航させたり、道内への接続列車を設けてピストン輸送にあたったが、四月末現在一日平均四百二、三十人という状況で、北管局も最終期までに何百人増加するか把握しかねる状態であった。
 結局七年の場合『北海タイムス』によると、十一月までに北海道移民取扱事務所等で取り扱った移民総数は二万三六五二戸、四万七〇二八人で、前年の同期と比較して四五七三戸、一万七〇二人の増加をみた(安田泰次郎『北海道移民政策史』によると、七年の移民数は二万四〇五五戸、八万三九二五人、六年の場合より二八八七戸、八三六七人増となっている)。
 札幌区の場合でみると、七年十一月現在で五八〇人、前年の三一三人と比較し二六七人の増加をみた。また札幌支庁の場合でも同様で、九七五人、前年の六六四人と比較し三一一人の増加をみた。この時期は空知・上川・河西・網走支庁方面への移住が圧倒的に増加傾向を示した(北タイ 大7・12・26)。
 移民数は、この後最初にも触れたように八年に九万人余の最大ピークを迎え、以後減少傾向を示してゆく。
 札幌区の人口は、四年に大きくダウンしたが九年末現在ようやく一〇万人を突破、一万九二一九戸、一〇万七六〇一人となった(表31)。
表-31 大正期札幌区の人口
戸 数人 口北海道人口
大115,478戸95,419人1,739,099人
 215,83996,8971,803,181
 315,93198,9181,869,582
 416,58283,2761,911,166
 516,65186,6801,984,524
 616,87489,6322,088,455
 717,08994,5682,167,356
 817,76298,6482,245,506
 919,219107,6012,359,183
 1020,976116,2832,341,100
 1122,915127,0442,374,699
北海道庁統計書』より作成。

 移民の増減は、多分に経済との関わりが深かったことはいうまでもない。ちょうど三度目の移住ブームが開始されたのが大戦勃発の翌年からで、大正二年には未曾有の大凶作で東北・北海道は大打撃を受けた。そこにヨーロッパで大戦が勃発、日本は四年から大戦終了直後の八年頃まで好景気を迎え、道内の産業は軍需産業をはじめ、豆類を中心とする雑穀商品をアジア・ヨーロッパ市場へ進出させるようになった。しかし、九年には戦後恐慌を迎えた。第一次世界大戦は、経済的にも社会的にも激しい変動を全国に与え、その結果北海道への移民を五〇万人ももたらす結果となった。それに加え札幌区の人口増は、七年開催の博覧会にともなう諸施設の建築ラッシュによってもたらされた博覧会景気と大いに関わりがあると思われる。