大正に入って、服装が次第に変化を見せはじめた。日清・日露の戦争における大勝利は復古主義の勢いを増し、国内の情勢を一変させた。この結果、一部においてハイカラという欧米の斬新さをとり入れた流行と、これに反撥するように蛮カラ精神が台頭して、対照的に両者が後年まで平行し続けた。
ヨーロッパで第一次世界大戦が起こったことにより、わが国の産業も急速に盛んとなり、いわゆる戦争成金があらわれ、一時的とはいっても国民の経済に多少のゆとりができた。女子中等教育が盛んになったこともあり、社会の需要と相まって女性の職場進出が明治末期から次第に高まり、札幌で最初に百貨店となった五番舘では女子店員は着物に白いエプロン姿で販売に従事するなど、服装のなかに少しずつ洋装が加えられていった。
明治期の洋服屋の客の最初はまず官庁からで、官員のフロックコートに帽子、小学校の男子教員に巡査の制服、看護婦それに軍隊であった。札幌では札幌農学校や札幌中学の制服が洋服の普及に一役かっていた。しかし、大正七年の米価の暴騰と諸物価の高騰により、一時この中学の制服さえも廃止せざるを得ない一幕もあった。羅紗類の騰貴で古着の洋服でさえ二〇円以上もしたからである(北タイ 大8・11・11)。
ところで、大正九年八月に道会選挙が実施されたが、札幌区の投票所で立合った北大教授の高岡熊雄は、投票にきた有権者の服装について統計をとったところおもしろい結果がでた。羽織袴の者二一・三パーセント、洋服の者三六パーセントで、このうち羽織袴の者は場合によっては洋服をも着用するので洋服階級に含めるとすると、五七・四パーセントが洋服階級とみなされる。札幌の有権者は洋服階級が多いというのである(北タイ 大9・8・12)。七年の道博の観覧者にも洋服があきらかに多くなっていた。一方、女性の洋装化は男性よりもかなり遅れ、札幌の北海高等女学校が十一年に制服に洋服を取り入れてから普及したようである(女学校物語 さっぽろ文庫35)。十年に中島公園を会場に開催された生活改善展覧会でも洋装化が叫ばれたが、どちらかというと子供服の洋装化の方が先行したようで、当時「子供洋服講習会」が盛んに行われたり(北タイ 大10・7・11)、洋服品評会も催されるなど、洋服が身近になりつつあった。