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私立北星女学校と私立北海高等女学校

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 明治二十年設立のスミス女学校から出発した私立北星女学校は、開校当初から「諸学校通則」(明19)に基づく「各種学校」であった。三十二年八月に「私立学校令」が発布されたが、同校はその適用の対象となり、三十四年に「小学校以上ノ程度(高等女学校程度)」(北星女学校沿革)の認定を受け、「高等女学校ニ類スル各種学校」に位置づけられた。この「私立学校令」と同時に、文部省は「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学制上最モ必要トス依テ官立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フ事ヲ許ササルヘシ」(訓令第一二号 明32.8.3)という学校での宗教教育を禁止する訓令を発した。キリスト教系の北星女学校の場合も、二十八年から初等部が設置され、尋常、高等の各小学校の課程が含まれていたため、その廃止を余儀なくされた(北星学園百年史 通史篇)。

写真-16 北星女学校生徒募集広告(北海教報 第39号)

 同校では三十六年に学則を改定し、修業年限を予科一カ年、本科五カ年、補習科一カ年とした(北タイ 明36・3・19)。予科への入学資格は尋常小学校卒業者であったと思われる。また、三十九年にも学則を改定した。それによると、同校の目的を「基督教ノ道徳ニ基キ高等普通教育ヲ施シ虔淑有用ノ女子ヲ養成スルニアリ」と規定し、修業年限は予科二カ年、本科四カ年、専修科一カ年とした(北星学園百年史 通史篇)。学科目は「高等女学校令施行規則」に準じていたが、なかでも英語を重視していた。英語系の課程は「リーダー」「英会話」「英文法」「英語歴史(ヒストリー)」などで、同校の特色ともいえよう(同前)。この学則は大正八年に「文部大臣指定北星女学校」となるまで、ほぼ同内容で続いた(同前)。
 同校の卒業式次第は、当然のことながら官公立学校とは異なる。四十年の様子を『北海タイムス』(明40・3・29)の記事から紹介しておこう。
 一 聖書暗誦
 二 祈禱
 三 賛美歌
 四 勅語奉読
 五 唱歌(君が代)
 六 証書授与並に告辞
 七 英語唱歌
 八 答辞
 九 答辞
 十 英語唱歌
 十一 合奏
 十二 邦語文章〔朗読〕
 十三 唱歌(祝)
 十四 英語文章〔朗読〕
 十五 唱歌(告別)
 十六 賞品授与
 十七 頒歌
 十八 祝辞
 この式次第は、建学の理念であるキリスト教の精神を貫くために、天皇制のそれとを巧みに調和させたもので、当時のキリスト教系私立学校の経営の難しさを浮き彫りにしている。
 北海高等女学校は、北海道で最初の私立高等女学校である。その母体となった北海女学校は明治三十九年四月に開校した。同校は仏教主義に基づく女学校で、東本願寺法嗣彰如の発意により、「本山教学事業ノ一トシテ」(私立北海高等女学校創立十周季紀要)設立された。学校の区分では、三十二年八月に発布された「私立学校令」(勅令第三五九号)に基づく「高等女学校ニ類スル各種学校」に相当する。同校の修業年限は「高等女学校令」に準拠して本科四カ年、実習科一カ年とした。初代校主兼校長には東京帝国大学文科大学哲学科を卒業した清川円誠が就任した。清川は教育方針は仏教主義を基調としながらも、幅広い教養を身につけさせようと努力し、「清く正しく只一筋に」を校訓とした(北海道私学教育史)。同校の本科第三回卒業生(明42)の熊谷たまの北海タイムス社に入社し、女性記者第一号として活躍した(同前)。
 同校は明治四十二年三月、「卒業生ニシテ進ンデ高等ノ学校ニ入ラントスル者或ハ小学校教員タラントスル者ニハ資格ノ上ニ何等ノ得ル所ナキ点ニ於テ不便不利」(私立北海高等女学校創立十周季紀要)を理由に、高等女学校への改組を文部大臣に申請し、翌年三月認可を受けることができた。これに伴って「高等女学校令」に基づく「私立北海高等女学校学則」を新たに制定し、修業年限四カ年の本科と一カ年の補習科を設置した。これによって、本科卒業生は尋常小学校准教員、補習科修了生は尋常小学校正教員の資格をそれぞれ取得できるようになった。
 同校では「本校生徒は常に教育に関する勅語の御趣旨を奉戴し女子の本分を完うすべき健全なる性格を養成」するために、「一般の心得」から始まって、「敬礼」「教室の出入」「食事」「服装」など一一項目にわたる「生徒心得」を制定し、日常生活の細部まで規制した(私立北海高等女学校創立十周季紀要)。