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札幌区立女子職業学校

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 札幌区立女子職業学校は、明治四十年五月「徒弟学校規程」中改正(文部省令第八号 明37・3・8)に基づいて、「女子ノ職業ニ必須ナル智識技芸ヲ授ケ兼テ淑徳ヲ養フ」(学則第一条)ことを目的として設立された。初代校長は札幌女子尋常高等小学校校長の小川幸太郎が兼任した。他の正教員には星野岩恵、小山内モト、村上ウメの三人の女性が発令された。嘱託教員は佐々木守、岩清水直次郎の二人であった。

写真-17 札幌区立女子職業学校(大6)

 同校では修業年限三カ年の本科と一カ年の撰科を設置した。後者はその内容によって、裁縫・刺繡・造花・割烹の四科に区分されていた。本科の教科目は修身・裁縫・刺繡・造花・割烹・家事・国語・算術・理科・図画・音楽・体操の一二科目としたが、これらのなかで、音楽科と体操科は随意科目であった。毎週教授時数を見ると、各学年とも裁縫科に充てる時数が最も多く、第一・二学年では三六時数中一四時数、第三学年では三六時数中一三時数をそれぞれ占めていた。次いで多いのが、刺繡科と造花科で各学年とも六時数を充てていた。「職業学校」という名称が示す通り、実業的科目を重視し教養的なそれは軽視されていた。撰科の場合はそれぞれの専門科目に修身科を一時数加え、「道徳ノ要領作法」を教授した。

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写真-18 札幌区立女子職業学校洗濯実習(大6)

 同校の入学資格は各科によって異なる。本科は年齢一二歳以上で高等科第二学年修了、撰科は対象とする年齢は同じであるが、尋常小学校卒業(四カ年)を原則とした。第一期生に当たる四十年度の本科の入学試験は「女子職業学校四十年入学者調」(札幌区役所 四十一年度予算材料)によると、志願者一四〇人中、札幌区が一一三人で大半を占めた。残りは篠路村、琴似村など札幌区近郊の諸村のほかに、こうした学校が北海道で最初ということもあって、小樽、伊達、余市、留萌、深川、新十津川などの各区町村からの志願者もいた。入学者は九〇人で、そのうち札幌区が八〇人を占めていた。なお、入学者は同校の『沿革誌』では七九人と記されている。入学者の平均年齢は本科が一六歳八カ月で、撰科が一八歳八カ月であった(札幌区立女子職業学校 沿革誌)。
 一般的に実業学校の発達は、日清・日露戦争後の日本の資本主義の発展と不可分の関係にあるといわれている(日本近代教育百年史 第四巻)。しかし、同校の設立は入学者の九〇パーセント近くが高等科卒業者や高等科第三学年修了者であることから考えて、教員数が少なく人件費を節減できるため、高等女学校に代わる安上がりの女子中等教育振興策として、その「代替物」の役割を担っていたといえよう。第二期生以降の同校入学者も、そのほとんどが高等女学校の入学資格を有していた(同校 沿革誌)。また、同校の設立は北海道庁立札幌高等女学校の入学難の緩和の意味も有していた。事実、同校開校後の四十一年度は、志願者三九六人に対して入学者九四人(競争率四・二倍)であったが、四十二年度は志願者三一〇人に対して入学者九六人(同三・二倍)、四十三年度は志願者三二八人に対して入学者九九人(競争率三・三倍)というように、入学難は緩和の方向に向かった(札幌北高等学校 六十年)。ちなみに開校前の三十九年度は、志願者三八三人に対して入学者一〇〇人(競争率三・八倍)、四十年度は志願者三七七人に対して入学者九九人(競争率三・八倍)であった(同前)。この入学難の緩和は、これから述べる札幌区立女子職業学校の四十二年の学則改定によるところが大きかった。
 同校は、四十二年に前年の義務教育年限の延長に対応する措置として、設立時の学則の一部を改定した。修業年限三カ年の本科はそれまで通りとしたが、一カ年の撰科は専修科へと科名を変更するとともに、割烹科を廃止して裁縫・刺繡・造花の三科とした。また、本科の卒業生を対象とする補習科を新設した。同科の教科目に教育科を設置し、その修了生は尋常小学校裁縫科教員の資格を取得することができた(札幌市立高等女学校 回顧三十年)。本科第一学年の毎週教授時数は全三六時数で変化はないが、それまで各六時数を充てていた刺繡科と造花科は各二時数に減じ、その分を国語・数学の両科などに割り当て、教養的科目の時数を大幅に増加させた。
 同校は「職業学校」という名称を冠しているが、それは女性が職業を持ち経済的に自立することを目指しているわけではなかった。その目的は札幌区長青木定謙が第一回卒業式で述べたように、あくまでも「良妻賢母たるの資格を具有」(北タイ 明43・3・28)させるためで、各教科での教授はそのための手段に過ぎなかった。同じ卒業式で北海道庁視学渡部守治は「近時女学生の眼は寧ろ高きに失して手之に伴はざるの弊多きより、絹を縫ふより木綿を刺すの腕を磨くべき事、ヒビを切らして洗濯を厭はざるの心掛けを失ふべからざる事」(同前)と述べた。ここに同校の教育の本質が象徴されているといえよう。