北海道教育会は明治二十四年二月、「教育ノ普及改良及其上進ヲ図」(北海道教育会設立趣意書)ることを目的に発足した、教員と教育行政関係者の職能団体である。同会は発足直後から北海道教育の諸課題に対して積極的に関与し、それを政策的にも実践的にも方向づけた。その機関誌『北海道教育会雑誌』(後に『北海道教育雑誌』『北海之教育』と改題)は、明治中期から大正中期までの北海道教育界のオピニオン・リーダーの役割を果たした。
同会の事業として図書館を設立すべきという意見は、明治二十六年にはすでに表われていた(北海道教育雑誌 第六号)。翌年十月の同会の評議員会でも御子柴五百彦が議案として「本会に書籍館を設くること」を提出したが、設立方法などを十分に調査する必要があるという理由で「当分延期」の決定をした(同前 第二五号)。二十九年には「智識拡張の第一歩として新聞雑誌縦覧所を適当な場所に設け漸次拡充補張して終に図書館とすべき」という段階的な図書館設立論も主張された(北海道教育週報 第八三号)。
こうした経緯を踏まえて、同会が「本道に於ける、学術智識の源泉として」(北海道教育雑誌 第五六号)図書館の設立をその事業のなかに正式に位置づけたのは明治三十年六月である。この決定にあたっては、公共図書館の設立を待望する区民の声もさることながら、二十年代以降の全国的な教育会附属図書館の設立ブームもその背景として見のがせない。一例を挙げると、全国規模の教育会では二十年三月に大日本教育会書籍館、地方教育会では二十年一月に長崎県教育会図書閲覧所、同年九月には島根県教育会附属書籍縦覧所、二十五年六月に信濃教育会図書縦覧所がそれぞれ設立された(永末十四雄 日本公共図書館の形成)。北海道でもすでに二十一年十月に福山教育会文庫が設立されていた。
北海道教育会が図書館設立に向けて具体的な活動を開始したのは三十二年二月である。二月の評議員会に議案として「本会事務所及学生寄宿舎建築の件」が提出された。この議案は同会の仮事務所を北四条西五丁目に新築する計画案であるが、そのなかに附設する施設のひとつとして「新聞雑誌縦覧所」の設立を盛り込んだ(北海道教育雑誌 第七五号)。これに対して、「新聞雑誌縦覧所」をもう少し広げて「仮図書館」とする意見が出され、賛成多数で可決された(同前)。
同年十一月二十八日には「図書館令」第五条の規定に基づいて、同会副会長大窪実から文部大臣樺山資紀宛に「図書館設置ノ義開申」が提出され、開館の運びとなった。しかし、同会の内部では「他日完全ナル建設ヲ成就センコトヲ期スルモ其図書ノ蒐集ハ一朝一夕ニ成功ヲ見ルヘキニアラサレハ此ニ其端緒ヲ開キテ漸次ニ拡張ヲ謀ルノ必要ヲ認メ事務所ノ一室ニ之ヲ附設」(同前 第八九号)したと述べているように、あくまでも過渡的な施設として位置づけていた。
なお、開館年月はこれまでの研究では不明としたり、あるいは三十二年十二月とするなど曖昧であった(坂本龍三 私立北海道教育会附属図書館)。しかし、この文部大臣への申請が「開申」という許認可を必要としない、単なる報告の形をとっていることから考えて、開館は同年十一月とすべきであろう。事実、『札幌区状態一班』(明39・9月調)にもそう記されている。