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郷土俳句の成立

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 中央の正岡子規らによる俳句革新運動はその後種々の傾向を生み、それらが札幌の俳句界に強い影響を及ぼしたが、その動向の中から郷土俳句運動ともいうべきものが生まれてきた。その中心は青木郭公と牛島滕六で、それぞれ俳誌を発行し、次の巻の時代にもこの運動の中心として長期にわたる活動を行った。
 青木郭公は明治二十三年に来道、二十年代から昭和十八年まで、多少の時期を除いて新聞俳壇の選者という指導者的地位にあった。青木が郷土俳句運動を本格的に興したのは、大正九年の「黒土会」の結成であるが、すでに大正二年一月「俳句選評について」と題し『北海タイムス』に連載した中に、若干これと関連していると思われるところがあるので、当時の実況説明の意味も含めて略述したい。
 ここではまず『北海タイムス』に掲載される俳句は新傾向が多いが、これは投句の傾向を反映しただけであると述べ、青木個人の流派について「旧派、新派、新傾向派の何れでも無いと同時に、又何れと見られても異存の無いことを言て置く」とし、さらに「小生は俳句を以て芸者の如く思ってゐる。歌ふに妙なるもの、踊るに巧みなるもの(中略)、各箇其特所々々によって遊び且つ楽しまうと思ふ」と、流派を相対的なものととらえ、さらに「心ある俳人に勧む、諸君は須からく此の際風流擁護のために俳閥打破の勇気を鼓しては如何」(1・27~29)と、流派有害論ともとれる主張を行っている。この思想を延長していけば、流派をこえた俳句という思想に行きつく。そして題材は身辺にとることとなり、青木が郷土俳句運動展開に際して「季を歳時記に探すは愚」と主張する根源は、かなり以前から青木にあったのではないかと思われる。
 牛島については、ここまでにも若干記述したが、河東碧梧桐の新傾向にも同調できず、俳句は芭蕉の正道にありとして、大正十年二月に俳誌『時雨』を発刊したが翌十一年一月に休刊、十二年に再刊された。創刊時には新田汀花佐瀬子駿長谷部虎杖子なども参加しており、牛島は郷土の自然から感受するものを句作の中心とすると主張し、斯界の指導者として活動した。

写真-2 牛島滕六

 このほか、この時期で注目すべきは、大正元年十二月に刊行された綜合句集『北海俳句抄』であろう。中森其涯の編で、『ホトトギス』『北海タイムス』など十余種三万余句より道内俳人の作二五〇〇の抜粋抄録が、これは本道最初の本格的句集として、かつ内容の充実したものとして高く評価されている。