まず赤帽子と通称され、看板店を経営していた原田文治郎によるいわゆる赤帽子音楽隊であるが、『北海タイムス』明治三十四年十月五日付に「楽隊広告」の見出しで、安達呉服店が「赤帽子の楽隊広告にて」安売の広告をしたとある。楽隊名はともかく原田による音楽隊がすでに結成されていたことを推察させる。三十六年八月二十二日付の日本力行会慈善音楽会記事中、札幌音楽隊の名がみえる。翌三十七年十一月十八日付には広告として「赤帽子 原田文治郎」の名で「札幌音楽隊 帰札」云々の文面があり、ついで同月二十九日付の孤児院慈善音楽会に「札幌音楽隊」の名が奏者として四回出てくる。これらからすると、原田による音楽隊は三十四年十月以前に結成されており、札幌音楽隊の名称も結成時かそれからさほど間をおかずに付されたものと思われる。その後も原田による札幌音楽隊の広告が三十八年に二回あり、この時まで札幌音楽隊が原田の下にあったことが確認できる。しかし四十三年十二月七日付には「赤帽子音楽隊組織」の見出しで「赤帽子看板店内に今回再び赤帽子音楽隊を組織し」とあり、同月十二日付には「札幌音楽隊の発展」の見出しで同隊は原田の創設であるから「当時其維持に苦しみて現時の森佐久間氏引受け」て今日に至ったとある。四十四年五月十七日付の孤児院慈善音楽会では、奏者の項に赤帽子音楽隊員、札幌音楽隊員の名があり、これによれば赤帽子音楽隊の再建は一応成ったようである。また前記森佐久間への引渡しは四十一年とされている(前川公美夫 北海道洋楽の歩み)。
前記以外にもこの時期いくつかの音楽隊が成立、活動した。札幌農学校にはすでに二十七年に本格的な楽隊が結成され、遊戯会等に活躍していたが、二十九年には、札幌の〓洋物店で音楽隊が結成されていた(丸井今井百年のあゆみ)。ついで三十七年には札幌麦酒株式会社に音楽隊が結成され、九月十日から練習を開始したが、同じ頃製麻会社にも結成されたようである。
これらの音楽隊は、前記慈善等音楽会に出演するほか、たとえば企業のそれは初荷の先頭に立つなど宣伝の任務も果たし、また観楓会、豊平館で挙行された新年祝賀会等にも出演し、さらに日露戦争下では戦勝祝賀行列等の先頭に立つなど、多様な活動をみせた。しかし大正に入ると、音楽隊の隊員が各映画館の専属となる傾向もあったが、一方、大正七年には開道五十年記念北海道博覧会で札幌音楽隊が連日演奏を行うなど、隊としての活動を維持していた。同音楽隊は十一年に森新聞店から独立し、昭和初期まで活動を続けた。
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写真-10 開道50年記念北海道博覧会の札幌音楽隊(大正7年) |