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国家神道と札幌

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 神道は明治十三~十四年の祭神論争により、「神社神道は宗教にあらず」というテーゼが確立し、ここに制度上は、国家の宗祀としての国家神道が展開することになる。この不可解な神道非宗教論について、日露戦後の神社整理の時期に、札幌神社宮司額賀大直は、「神社の御祭神は(中略)皇室の御祖先、国家の功臣我々の祖先でありまして之に対する考へは決して信仰に基くものではなく、所謂報国の赤誠に依るので、其崇敬の極が信仰といふことになって来るのであります」(国民教育と神社 北タイ 明44・12・5)と、皇室への「崇敬」という現世のイデオロギーで国家神道をやさしく解説している。しかし、神道は宗教ではないといっても、現実には神道がまぎれもない国教として(たとえば教育現場における参拝強制や、靖国神社における招魂の機能において)、仏教・教派神道・キリスト教といった諸宗教の上に君臨し、全体として国家神道体制を形成したといえよう(村上重良 国家神道)。
 また北海道の社会の特殊性と、そこでの国家神道の果たす役割について、為政者の認識を端的に示すものとして、大正二年五月十八日の北海道神職会第六回総会における中村純九郎北海道庁長官の訓示をあげたい。
現時一般移住者ヲ見ルニ誠心誠意国家ノ為メ開拓ニ従事セントテ来道スルモノハ至リテ尠ナク内地ニ於テ失敗シタル者ノ利権獲得ヲ目的トシテ来道スルモノ多キガ如シ、斯カル移住民ナレバ其種類多々ニシテ之レヲ内地人ト比スレバ寧ロ劣等ノ人々モ尠カラザルハ免レ難キ所ナリ故ニ風教改善ニ従事シ、又徳義指導ニ従事スル神職ナドハ、此点ハ見逃シ難キ所ナルベシ(中略)此敬神ノ念ヲ捕へ此ノ念ヲ助長セシメナバ教化ノ実ヲ挙グルニ庶幾(しょき)カランカ(中略)他ノ新開地朝鮮及台湾ノ如ク異人種ノ雑居セルモノニアラズ、其殆ト全部ハ孰レモ倭民族ノ本道ナレバ台鮮ト比スレバ寧ロ易々タランナリ(傍線編者、以下同)

 内地に比して、失敗者、劣等者の多い北海道においては、「風教改善」「徳義指導」に関わる神職者の敬神の念を助長する役割は重要で、しかも北海道が劣っているとはいえ、異民族が雑居する植民地に比べれば北海道の方がはるかに条件が良いとの論旨である。「大日本帝国」における植民地群の中に位置づく北海道という官僚の視座である。
 そして日露戦後という時期は、神社の統廃合、一村一社政策が展開し、土俗的な民俗や宗教が撤廃され、国家神道が社会全体を覆い尽くす時期である。この日露戦後の地方改良運動から民力涵養運動へと続く国民教化の中で、地域の神社がいかに統合の場たりえたかは、当時の新聞をみれば一目瞭然であるが、大正十年一月一日発行の『北海道神職会々報』九号の「神社ニ関スル実施事項」の「団体参拝」の項では、「客年以来在郷軍人分会及青年団等ト連絡ヲ取リ、大祭奉告祭等ノ際ハ特ニ団体参拝ヲ為サシメ、以テ敬神思想ノ滋養ヲ講シツヽアリ」とあり、北海道庁内の北海道神職会が、組織的に国家神道を国民統合の手段としていたことがわかる。