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浸礼、末日聖徒、東洋宣教会の進出

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 プロテスタント教会でも、既存の五教会のほかに二十世紀初頭には北部バプテスト派など新しい教派の札幌進出がみられた。まず、北部バプテスト派の日本浸礼教会は、根室に拠点を持っていたが、小樽・札幌へも伝道地を拡げた。札幌では明治三十七年(一九〇四)八月、札幌浸礼教会講義所(南二条西一丁目)として北海道庁から会堂・説教所設立の許可をとっている。「布教者」は石川保五郎であった。その後、四十年五月十日の札幌の大火で会堂が類焼し、大通周辺を転々とした。四十三年には会員が二〇人程となった。しかし先発の五教会のように自給に結び付く教勢の伸展が得られなかったためであろう、大正三年(一九一四)八月、閉鎖した。
 「浸礼教会の閉鎖」を伝えた『北海タイムス』の記者は、最終閉鎖の前年(4月14日)の記事で、他のキリスト教各派が「国体論」や「儒教論」の攻勢に妥協して「基教(きりすと)本来の立場を忘れ経済の独立を希ふに急なる結果は信徒の数を殖す末節に計り拘泥して形骸の厖大となる」状況にあると批判し、浸礼教会は「頑固な態度を持してるのと伝道の着手が遅かったので他の教会派に比して振はない状況にあるのは是非もなき次第」として、札幌においても保守的な神学による伝道が区民に浸透しなかったと指摘した。
 末日聖徒耶蘇基督教会(モルモン教)は、明治三十八年に東京から三人のアメリカ人宣教師が来任し、南六条西七丁目を拠点として伝道を始めた。当時の宣教師としては、ジョン・ストケルなどの名が記録されている。明治四十一年までに一〇人が受洗したといわれ、大正十年に信徒数二八人との記録はあるが、大正八年以降、札幌区の統計からは姿を消した。ほかのキリスト教会からは、経典を異にし特異な教義を持つ宗派として見られ、教会相互の交流はなかった。
 次に札幌への進出を見るのは東洋宣教会である。同会は明治三十四年に設立された超教派の伝道団体であったが、次第に教派の性格を強めて、のち大正六年、東洋宣教会ホーリネス教会となった。各地に設けられた福音伝道館は教会に相当し、教役者として「福音使」が派遣されて活動にあたった。札幌へは小樽福音伝道館の金田信一福音使が巡回していたが、明治四十三年札幌福音伝道館が苗穂東五丁目(北三条東五丁目)に開設され、森五郎福音使が着任した。同派は十字架の救いによる新生、聖霊による全き潔め、信仰による神癒、キリスト千年期前の再臨という「四重の福音」(新生、聖化、神癒、再臨)を標榜し、聖書や伝道用トラクト(パンフレット)を配布した。旺盛な伝道を特色とし、平易な教理で大衆への浸透をはかった。札幌の福音伝道館は、のちに札幌ホーリネス教会として定着した。会堂はさらに移って、大正二年、北一条西三丁目、すなわち組合教会の旧会堂を使用することとなった。

写真-9 札幌福音伝道館(明43.3)

 このように、新しい教派の進出は、札幌の教会の幅を拡げることになった。同時に幅の拡大は、前に述べたプロテスタント全教会の合同が、札幌においても主要教会の結集だけでは困難となったことをも示した。大正元年以降にはその多様化が一層促進されることとなる。