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フランシスコ会の参入

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 二十世紀初頭、カトリック教会の札幌宣教はパリ外国宣教会が担当し、H・ラフォンヌとJ・E・ビリエ両神父がその任に当たっていた。当時、札幌天主公教会は子供を含めて毎年一〇人前後が洗礼を受け、徐々に増加していったが、一面、信徒の教理的訓練の不足が感じられていた。ラフォンヌとビリエは、カトリック教徒としての基礎的な教理を注入するため、「信者に向って病人を除く一般信者老幼共公教要理の暗記と意味を心得る事を強制的に強いらるゝ事を努めらる」(札幌市に於ける天主公教会)というように『公教要理』教育を精力的に行った。このようにして教会の内実が整えられ、日露戦争後の明治四十年以降は毎年二〇人の受洗者があり、四十二年には広島村を含む札幌の信徒が二三一人となった。
 札幌の発展に伴って、カトリック教会も宣教体制の新たな強化を目指すことになり、函館教区のベルリオーズ司教は、宣教師と活動資金を新たにヨーロッパに求めた。その結果「マリアの宣教者フランシスコ修道会」の修道女や「フランシスコ修道会」の宣教師が派遣されることになった。
 マリー・ド・ラ・グァダルーペら七人の修道女たちは、明治四十一年来札したが、当初北三条東四丁目に借家を求め、やがて当時札幌村であった北一五条東一丁目に移った(初期の所在地には多数の説がある)。これが通称「天使院」と呼ばれたマリアの宣教者フランシスコ修道会修道院の開設であった。一方ヴェンセスラウス・キノルドらのフランシスコ修道会は、明治四十年六月、札幌での同会最初のミサを仮住まいで行ったが、やがて聖フランシスコ修道院を北一五条東一丁目に建築した。修道院付属の聖堂は鉄道以北の信徒がミサにあずかる聖堂を兼ね、札幌村天主公教会と称した。当初はわずか五、六人の信徒であったが、修道女会が札幌村に天使病院を開院した頃から受洗者を増し、大正三年には三二人の受洗者があった。
 修道女会は明治四十四年九月、天使病院を開院した。ベッド数二五床の小さな病院であった。開院の頃は周囲の住民から、誰も来ない野原に建てた病院、と揶揄された。しかし札幌の病院の多くが畳敷きであった中で、ベッドを設備したことから多数の見学者を呼び、修道女の献身的な施療により、同病院はやがて地域に不可欠な医療機関として信頼を得るようになった。異様に思われた修道女姿も札幌の町に馴染んでいった。創成川を挾んだ鉄道以北の地域は、後述するマリア院の開設も加わり、カトリックの教会、修道院、学校、病院など諸施設が地歩を占め、その後のカトリック発展の基礎を築くことになる。