十四年は祭にも戦時色が強くなり六月十四日の宵宮祭も中止となる。これは神輿渡御が例年の十五日からの三日間ではなく十六、十七日の二日間とし、道程も例年の半分の七里に半減となったためであり、この結果、十四日の宵宮祭が中止となったわけである。十五年は神輿渡御に維新勤王隊が不参加となり、経路もさらに三里に減少となっていた。
十六年は皇紀二六〇〇年を記念して、賑やかさを増すことをねらって神輿渡御に維新勤王隊が復活し、道程も延長して約七里に戻されるようになる。敬神の念の強化がなされるようになり、札幌神社では「不敬に亘る態度や渡御のさまたげをせぬ様」に、八項目の「神輿奉拝心得」を定めていた。この中には神輿渡御に対して電車の停止、「電車その他の乗物に乗車の方は全部下車奉拝するやうにせられること」なども定めていた(北タイ 昭16・6・13)。
十七年になると「極力消費を排す」の方針の許で一切の電飾、提灯、アーチなどを廃止している。ただし、戦時中であっても出店などは許されていたが、次に紹介するように「決戦調」であったという(北タイ 昭18・6・16)。
創成河畔に立ちならんだ天幕張りの祭典興行、見世物小屋から勇壮な軍歌が拡声器から雷のやうな最高音でがなりたてる、軍歌が終れば別の小屋から花形が歌ふのであらう詩吟がやはり拡声器で、流れる見物の波にふりそゝぐ、曾てのレビュー花形は今や剣舞、詩吟で見物の胸に国粋の花を咲かせ……
露店にも「下駄の鼻緒を簡単に造る道具」、靴下修繕の型紙など生活用具も目立ち、見物客の服装も国民服、モンペ姿であったという。十九年、二十年になると再び神輿渡御は中止されるが、十九年の場合、曲馬団、猿芝居などの見世物小屋がいまだ立っており人気を集めていたようである(北タイ 昭19・6・16)。