教職者の拘留・裁判のほかにも、教会堂の接収や教職者の徴用は、教会活動に直接の制約を加えるものであった。会堂の接収では、まず昭和十八年、陸軍被服本廠札幌出張所が、日本基督教団北海教区に二カ所以上の施設提供を要請した。対象とされたのは北光教会の会堂と幼稚園で、同教会は北一条東六丁目の札幌教会明星幼稚園舎を借りて仮会堂とした。聖公会(同教団へ加入後は札幌北八条教会)もこの年、陸軍に借上げられ酒蔵になった(藤井清氏聞書き)。さらに翌年、被服本廠のもう一カ所の倉庫として大通教会(独立教会)の会堂が接収され、カトリックの北一条教会の伝道館も接収された。軍の徴用ではないが、北星女学校は新設の庁立女子医学専門学校に校舎を貸与するように求められた。前年、同校は高等女学校となって存続を図るため、キリスト教教育を公の教育目的から削除したばかりであった。このため同校理事会は、次年度の生徒募集を停止し、廃校の危機に立ち至った。牧師や司祭など教職者の徴用では、宗教挺身隊の一員として函館郊外の飛行場建設工事や、三菱美唄炭坑などの労働に従事したが、カトリックの司祭・修道女などには、マニラなど南方へ派遣された者もあった。
戦争末期、キリスト教界は国策に順応しつつも、抑圧の対象であることから免れられなかった。昭和二十年五月には、文部省が天主公教教団に対して、キリストの復活を教義から外すよう要求したといわれ、日本基督教団にも同様の要求があった。したがって終戦の日八月十五日は、キリスト教界にとって衝撃と同時に苦難からの解放の日として受け止められた。北光教会の『教職日誌』には、この日「陛下のラジオ放送拝聴(戦ひは終れり)」と短く書き込まれた。豊水教会(元救世軍札幌小隊)では『〔札幌〕小隊歴史』(日誌)に「情勢一変し新しく発足す」と記した。札幌教会の女子共励会の記録には、八月十九日の礼拝で「君が代は泣けて歌へず」と伝えている。同日、北一条教会は主管者として再び小野村林蔵を招聘した。
獄中にあって凍傷で手足がくずれ血を流すような冬を過ごした伊藤馨は、十月に釈放の知らせを聞き、金子未逸と手を握って喜びあった。カトリックの神父たちの「喜びは大変なもので、これからは布教を良くすることが出来る」(山鼻カトリック教会三十年のあゆみ)と大張り切りであったという。一方、戦争協力に積極的であった日本基督教団北海教区長の真野萬穰は辞意を表明、翌年五月、札幌教会の牧師も辞任して郷里八雲に去った。昭和二十年十月、連合国総司令部は、「政治的、市民的及ビ宗教的自由ニ対スル制限ノ撤廃ニ関スル覚書」を発し、同月の治安維持法についで十二月、宗教団体法が廃止となった。キリスト教界も新しい時代への適応を模索しつつあった。