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職員

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 助役収入役を除く市役所職員数は吏員定員規程(のち有給吏員定数規程)によって決められ、その実数は表4のように移り変わった。この表には市立病院や後に開設される電気局など特別会計の外局職員は含まれていない。主事と技師が課長職にあたる幹部職員で、大正十四年から視学、市医が加わり、昭和十七年さらに体育主事が増し、これらが年俸吏員である。
表-4 市役所の職員数
合計主事技師視学市医体育主事書記技手道路書記道路技手書記補税務吏技手補事務員技術員清掃監督長清掃監督清掃監視嘱託臨時事務員臨時技術員臨時雇諸職
大1112171---167--19-323-16324--20-
 1213562---278--31-154--7363--5-
 1315862---277-22514163--7304--24-
 141756412-2612-23014273-17306--211
 151816412-2819-127172105-17337--101
昭 22116313-2917-2301522015-17395--151
  32195313-3615-2332221614-17443--111
  42276412-4116-23623-5216-17511-121
  52246413-3615-23222-5416-17532-132
  62486412-4014-23123-581611755311315
  72536411-3716-23423-561511655611518
  82706411-4016-23323-601511754652018
  93116511-3823-23823-872511865222017
 103465611-4628-248232973111895111817
 113514611-4328-24020710627118118141517
 123768611-4927-238217115271181791-1720
 13381861--46261157-1012818-1613131-2718
 143477611-47191151-511817-1813132-1720
 153757611-53211148-31231411101016763020
 164378511-76281154-2145181130111175823
 174419511178211150-21631712359964321
 184509611176221158-31641813331011321115
 19481961119821-160-51571713351018--1819
 2044311411111122-157-4132121330915-11314
1.表中に兼任者5~10人が含まれるので,それだけ実数は減る。
2.『札幌市事務報告』(各年)より作成。

 いわゆる中堅職員の書記(同補)、技手(同補)は月俸吏員で、主事技師等とともに規程第一条に定められた市役所職員の中核をなした。これに大正十三年税務吏が新設されて加わったが、昭和十三年この職名を廃して書記補に含めることとなった。また、道路技手、道路書記も新置され、さらに規程改正により事務員と技術員が第一条吏員に編入された。このほか市長は俸給予算内で嘱託員、雇員を使用することができ、表4の清掃監督長からがこれにあたる。諸職と表示したのは、施設の新設にともなう専任職員をまとめたもので、医員、看護婦、薬剤員、保健婦、巡視、汽罐士をはじめ、療養所長、公益質屋事務長、小児結核予防所長、市民武道場長等特定の施設に限った職員である。
 区役所時代は六、七十人の職員数であったから、市役所となって大幅な職員の増加をみたことがわかる。昭和二年二〇〇人台に、九年三〇〇人台に、そして十六年には四〇〇人台となった。これを人口比でみると、高岡市政の大正十二年は職員一人当たりの人口が一〇〇三・四人だったものが、橋本市政の昭和三年に七一四・六人、三沢市政の十三年は五二九・〇人、そして上原市政の二十年は四九七・六人にまで減じ住民サービスが手厚くなったともみえるが、一方で国政事務の委任事項が増大していくから、自治の充実とばかりはいえない。
 これら職員が前述の各課係に配属され、業務に従事することになる。しかし業務量の増加と定員が連動するとは限らず、いつも繁忙による増員が課題となっていた。その原因の一つは国政委任事務の増大であるが、市内部の事情として、都市計画の推進による施設設備の充実があげられる。電気局が外局として開設されると、四一五人が市職員として一挙に増加し、職業紹介所、市場、公益質屋、産業研究所、機械工訓育所、屠場、体育所、武道場、さらに円山病院、健民病院、療養所、診療院、母子保健相談所、小児結核予防所等々の新設により多数の職員を配置しなければならなかった。また、市役所職員の応召出兵による欠員が慢性化し繁忙につながっていた。「時局事務の繁忙に悲鳴をあげている札幌市役所は、目下応召その他で欠員二十二名にのぼり、一般的労力払底の補充難に加へて、応召者の椅子は帰還まで残して置かねばならず」(樽新 昭15・1・11)、支障をきたすことが多かった。加えて戦時統制と食糧不足の深刻化にともない、昭和十九年七月からは市役所職員も公区より近隣農村に派遣される援農隊に加わらねばならないとされ、一般事務の手不足を増長した中で敗戦となったのである。