市役所庁舎は区役所をそのまま継続使用した。明治四十二年(一九〇九)、北一条西二丁目に建てられた木造二階建て五二六坪のこの庁舎は、業務の拡大、職員の増加にともない附属舎を増築し、内部を改修してきたが、市制施行後の職員増でますます狭隘となり、昭和二年(一九二七)には本舎南側に庶務課舎を増築するなどして対処したが、全面改築が課題となってきた。
市会がこれを建議したのは昭和六年三月だった。「今日ノ市勢ニ対比シ、設備甚ダ整ハサルモノアルノミナラス、狭隘ノ度益々加ハリ為ニ所員執務ノ能率ヲ減殺シ、延テハ市民ノ利便ニ影響スル所亦少カラサルモノアル」(市会会議書類 昭和六年第一回)から、市役所庁舎の改築計画を立てるようにとの丸山浪弥ほか二四人の建議案が可決されたのである。
これ以後、市で内部調査を進め、改築問題が具体的に動き出すのは八年二月である。市会議員一三人が市庁舎改築委員に決まり、市が作成した二つの改築素案と財源の検討に入った。両案の建築延べ面積、構造、必要資金には大差がなく、問題は建築位置を市有地である大通西一丁目と北一条西四丁目のどちらにすべきかで、財源として基本財産から六万円、市民からの寄付金一五万円、あとの四三万円は三年据置二二年償還の市債が予定された。市会でこれらの計画が決定するのは九年七月のことで、後者の市有地、すなわち北一条西四丁目の一部を敷地とすることになった。これにともない隣接する道庁拓殖部長官舎敷地を中島公園にある市有地と交換して、あわせて一五一二坪余の新庁舎敷地が確保された。
建築設計は市役所土木課技師遠藤慶蔵が中心となって、人口五〇万人、市会議員六〇人規模の市を想定して進め、その設計図に大蔵省営繕管財局工務課長池田謙次が検討を加えたが、基本的には市案と変わるところはなく、外装を周囲の建物に調和するようタイル張りに変更した程度である。それによると、鉄筋コンクリート造り、地下一階地上四階、一部五階部分(図書室、暗室、水槽室)があり、延べ建坪二三五八坪余、正庁、市長室、事務室のほか市会議事堂、市会関係室など一二〇室からなり、エレベーター、スチーム暖房、ガス装置、給水給湯、電気時計、拡声器、消火栓、浄化槽、塵芥焼却炉等、当時考えられる近代的施設はすべて網羅したといわれる。これに別棟の御真影奉置所、自動車車庫、自転車車庫がつけられた。
建築費の大半は起債であるから、これの折衝が難題の一つであった。昭和九年九月橋本市長は内務、大蔵省と交渉し、「庁舎建築の起債は元々内務大蔵では不許可の方針であるが、札幌市の現庁舎は吏員六十名の時代に建築されたものであり、特殊の事情があるのであり、償還財源も確実であるので充分諒解しているから、許可されることはまちがひない」(北タイ 昭9・10・2)との見通しを得た。
いま一つは市民からの寄付集めである。目標を一五万円としたが、警察署建設に続く寄付とあって反対も少なくなかった。しかし募金が始まると予想外の賛同者があり、デパートから一万五〇〇〇円の大口をはじめ一九万円余が寄せられた。これは市役所業務の円滑を望むだけでなく、市のシンボルとして道内他市には見られない偉容美観の建築物の出現を市民が期待したからであろう。