ビューア該当ページ

財政

77 ~ 79 / 1147ページ
 市政方針は財政施策と表裏一体であり、予算執行の適正化は市政展開に決定的影響を及ぼした。図2は歳入決算額の変遷により、札幌市財政の動向を大まかにとらえようとしたものである。

図-2 札幌市の歳入決算額の変遷(札幌市史 政治行政篇より作成)

 市制施行後昭和二年に至る初代高岡市長の財政政策は堅実で、将来の発展に備える基礎固めに徹した。札幌市の近代化をめざす都市計画事業の立案に腐心し、豊平川水利権、水力発電、上下水道敷設、電車市営化を一方の脚とし、教育施設の充実計画をもう片方の脚に、財政執行にあたったといえよう。高岡市長のもとで樹てられた計画が具体的に実現していくのは市長退任時であり、事業の多くは二代目市長に引き継がれることになる。そうした中で市有財産造成事業として第二期西山造林計画を実施に移したことが注目される。
 図2をみると、市税収入はほぼ一定しているのに、決算総額が大きく高低を描くことに気付く。すなわち、昭和二、三年に第一回目のピークがあり、八、九年に二回目、十一年に三回目のピークを迎えた。この間が二代目橋本市長による財政膨張時代で、初代市長の策定した計画を踏まえて、思い切った都市計画事業を推進した結果にほかならない。とはいえ、当時は金融恐慌、冷害、水害、農村疲弊の中にあり、市税の伸張は期待できず、昭和六年から連年の赤字を生ずることになった。そこで橋本市長は十年度予算編成にあたり、もっぱら消極方針を貫いて赤字解消につとめ、市税徴収率の向上、歳入の確実な把握と内輪の見積り、基本財産処理の迅速化を図り、新規事業の抑制、事務費の節減につとめて、昭和十三年には全額赤字を克服することができた。
 三代目の三沢市長は戦時財政を余儀なくされ、十三年度予算は物価騰貴による財源難から、新政策は事実上困難になった。その中で初めて防空費が計上され、戦時生産力の拡充をめざす産業研究所や機械工の養成などを盛り込んだが、十四年度予算編成にあたりこれが市会で問題化し、市役所機構人事、塵芥処分事業、市医視学廃止等と絡んで市会と市長が対立した。話し合いがもつれ、道庁権限による裁決に持ち込まれそうになったが、市長が予算原案の執行を形式上は断念し解決したとはいえ、予算編成の仕組みに転機を迎えることになった。それまでは市長提出の予算案を、市会は議長指名の調査委員に委ねて詳細な検討をなし、市会が何らかの修正を加えることを常とし、大幅な修正組替えも珍しくなかったが、十五年度予算審議から市会は市長原案を修正せず、付帯決議を付すようになったのである。
 昭和十五年税制の全面改正により市税条例も改め、分与税の新設、小学校教員給料の地方費(道費)負担化が市財政を好転させるかと思われたが、結局は「総てを銃後の備えの強化と戦争目的の達成に帰一せしむる」(市会会議録 昭和十八年第一回)財政とならざるを得なかった。一方、市民の税負担は国税において強化され、国費地方費による市への支出金、交付金、補助金制度は市財政の中央管理を生じ、地方自治の後退をもたらした。第四代上原市長は財政通をもって選ばれたとはいえ、その識見を札幌市で発揮することができぬまま退任に至ったのである。