深刻だった昭和恐慌も、七年下半期に入るとやや明るい光が射してきた。全国的には、金輸出再禁止による輸出増進が顕著であった。北海道においても「各種輸出特産品の売行旺盛を加へ市価の昂騰滞貨の払底は久しく不況に沈淪したる業界を刺激した」が、道内農業は、大水害のため七年もまた凶作であった(北海道拓殖銀行 第六六期営業報告書 昭7下半期)。札幌拓殖倉庫も、「年末よりの『インフレーション』景気の出現も一時的」で、凶作と国際連盟脱退により「益々商取引を不振ならしめ」たという(札幌拓殖倉庫 第二一期営業報告書 昭8・7)。今井商店も全国的な景気回復の兆候を指摘しながらも、北海道は凶作のために「農村は一層苦境に陥り一般購買力は益々減退するの情勢」だとしている(株式会社今井商店 第一四回営業報告書 自昭和七年二月七日至昭和八年二月六日)。営業報告書という資料の性格上、配当率の低さの弁明として不景気を強調する傾向はあろう。しかし、北海道における凶作の影響は大きかったように思われる。北海道・札幌が恐慌から脱するには、農村の購買力回復が鍵だった。そして八年に至り、米の豊作に加えて、菜豆、馬鈴薯、薄荷なども増収し、ようやく農村に活気が戻ってきた。札幌商工会議所の調査によれば、昭和八年七月の市内各駅の鉄道貨物発着トン数は、前年同月に比べ発送で一二・八パーセント、到着で一〇パーセント増加した(北タイ 昭8・8・12)。札幌鉄道局全体でも、同年十一月には石炭、木材、砂利、鉄及び鋼製品、セメント、活鮮魚、米の出廻りが多く、活況を呈した(北タイ 昭8・12・6)。同年末に北海道銀行頭取加藤守一は、卸売物価の上昇や銀行預金・貸付の増加という事実を示し、「本年の本道財界は幸ひにして内地一般以上の好況」であることを明らかにした(北タイ 昭8・12・21)。
しかし、先にもふれたように、九年には三たび農産物の凶作が襲った。すなわち米の収穫高は「平年の六分作程度に止まり……大小豆、各種菜豆類は何れも七分作前後」の凶作であった(北海道拓殖銀行 第七〇期営業報告書 昭9下半期)。また翌十年も、低温、豪雨、台風のために米収穫高は凶作だった前年をさらに一割八分下回り、畑作物も甜菜を除いて夏・秋ともに「全道を平均して半作と称せらる」状況となったのである(北海道拓殖銀行 第七二期営業報告書 昭10下半期)。
ただし、昭和九、十年の状況を「恐慌」とみなすのは正しくないだろう。「二ケ年続きの不作に依り本道農産物の市価は比較的高値を維持し」(札幌拓殖倉庫 第二四期営業報告書 昭11・7)という指摘もあるように、価格は回復し、農業以外の分野はむしろ好景気を謳歌していた。
このように、北海道・札幌における昭和恐慌は、農作物の凶作という暗い側面を持ちながらも、軍需工業、重化学工業、外国貿易を牽引車として昭和八年頃から解消していったということができるだろう。