ビューア該当ページ

北海道の銀行体系構想

431 ~ 433 / 1147ページ
 一般に、昭和二年の金融恐慌から中小銀行の破綻、経営難が続出し、三年一月の銀行法施行を機に銀行合同が行われる。北海道では、「北海道の金融界は、金融恐慌の影響を受けることも比較的に少なく、概して平穏であった」(北海道拓殖銀行史)と指摘されるように、農業不況・土功組合問題・糸屋銀行破綻に矛盾が集中する一方、札幌をはじめ都市部においては、銀行の休業・破綻は見られなかった。糸屋銀行休業直前の大正十五年三月二十日に栗山の北海道殖産銀行が取付に見舞われたが、道銀の援助により難を免れている(北タイ 大15・3・21、3・30)。その後も政府・道庁の指導もあり、昭和三年三月道銀が百十三銀行と合併し(北海道金融機関沿革史)、四年七月には寿都銀行整理に乗り出し(北タイ 昭4・7・21)、同年十月には小樽銀行に役員を送り、北海道商工銀行として再生させる(北タイ 昭4・10・11、11・1)など、道銀を軸に小銀行整理が行われた。
 ところが昭和恐慌による打撃で道銀自体が経営難に陥ると、七年十一月山口治作頭取は辞任し、拓銀の加藤守一副頭取が後任者となり、重役陣も一新した(樽新 昭7・11・20)。これは大蔵省および日本銀行の斡旋であったようだ(北海道拓殖銀行史)。新首脳は「一、不良固定貸の整理促進、二、職制の改革、三、地元銀行としての完全なる機能の発揮」を改革の骨子とした(樽新 昭8・2・16)。このように昭和恐慌期には、道銀をも傘下に置いた拓銀が、北海道普通銀行界にも多大な影響力を有するに至ったのである。
 昭和恐慌期の拓銀頭取は、金融恐慌時の大蔵省銀行局長であった松本脩である(在任期間昭3・1~11・2)。松本頭取は、昭和九年八月に『北海道地元銀行体系改革ニ関スル私案』(拓銀蔵)を書いている。これによると、まず内地において銀行合同が活発になったころ、「数年前当時ノ当行頭取(注・前任者の加藤敬三郎であろう)ヲ中心トシテ道銀、北門ノ両行ヲ合併セムトシタルコトアリタルモ失敗ニ終リ」、以後合同の努力がされていない。しかし、銀行体系改革は「必至ノ運命」なので、拓銀がその衡に当たらなければならない。合併の可能性は三通りある。すなわち、第一は、普通銀行全部を道銀に合併する、第二は、普通銀行を道銀に合併の上、拓銀を普通銀行と不動産銀行に分解し、普通銀行業務は道銀に委譲、拓銀は「北海道ニ於ケル農工銀行」となる、第三は、第二案でできた農工銀行を日本勧業銀行に委譲し、勧銀支店となる、というものである。
 さて、三つの案につき松本頭取は次のように批判する。第一案は、各行の資産評価が難しく、新たにできた普通銀行も「欠損銷却カ極テ微弱」なので健全な発展ができない。第二、第三案は拓銀分割案である。これに対する反論として、まず「拓殖銀行ガ所謂混合銀行トシテ設立セラレタルハ……各種信用ノ混合処理ヲ必要トシタルニ由ル」とし、混合銀行の例を南ドイツ不動産銀行と拓銀、そして朝鮮殖産銀行に求めるのである。南ドイツ(バイエルン)の不動産銀行については、かつて水越頭取が大正十一年十月から翌年五月まで視察し、北海道とバイエルンの経済・金融事情の類似性、混合土地抵当銀行の発展ぶりを学んできた。これ以後、混合銀行論が拓銀首脳に受け継がれ、短期貸出の積極的取組や普通銀行救済策の理論的根拠となった(北海道拓殖銀行史)。
 北海道の普通銀行の実態からも混合銀行の必要が説かれた。すなわち、内地銀行(支店銀行)は、「比較的交通ノ便ニ富ム主要都市ニ限ラレ……而モ是等ノ支店銀行ニ於ケル営業ハ、道内都鄙ヲ通ジテ例外無ク預金ノ吸収ヲ主眼トシ僅カニ商取引ニ伴フ資金ノ融通ヲ取扱フ程度ニ過キズ」、それゆえ内地銀行の支店は北海道金融に貢献すること少なく、混合銀行を必要としているというのである。また、地場銀行たる道銀、北門も道南あるいは都市に支店が集中し、道内預金を道外に放資する傾向は内地銀行と変わらないという。しかも道銀、北門は、商業銀行とはいいながら、不動産担保金融の比率が高く、「是ヲ普通銀行ト称スルモ実質上当行ノ混合銀行タルト選ム処殆ント無シ」としている。
 さて、それではいかなる銀行改革が考えられるのか。結論は「一、道銀、北門、殖産(泰北、商工、樺太ハ姑ク措ク)等ノ普通銀行ヲ当行ニ吸収合併シ当行ヲシテ北海道樺太ニ益々混合銀行タルノ職能ヲ発揮セシムルコト」であった。これは、「従来何人モ之ヲ唱ヘタルモノ無ク」「聊カ奇矯ノ」構想だが、もはや地場銀行同士の合同では、欠損を抱えているため、資産評価しても「(+)ト(-)」あるいは「(-)ト(-)」の比率を求めることになり、無意義だと主張している。
 この松本構想は、その後の史実を示しているという点で画期的である。ただ、混合銀行たる拓銀のもとへの合同は、北海道の特殊性から説き起こされているが、混合銀行の必要という点では、すでに不動産貸付の固定に悩む内地普通銀行が、不動産貸付資金化を要求した論理のなかにみられたのである(池上和夫 明治・大正期の勧銀・農銀論)。その点では、戦間期北海道の経験は、地方における金融市場と銀行のあり方・系統との矛盾をもっとも鮮明に映し出すことになったといえるだろう。