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重化学工業化

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 戦時体制期札幌の産業構造はどのようになっていたのだろうか。第一節表1「生産物総価額」によると、昭和十三、十四年の構成比は、それ以前とさほど変わってはいないようだ。これ以後は十分な統計がなく確かめようがない。ただし工業の内容は、重化学工業化の方向に確実に傾斜していた。工業を部門別に分けると、機械器具工業の成長がめざましく、札幌市の工業生産価額に占める割合は、十四年に二一・六パーセント、十五年には二一・九パーセントに達する。同期間の他の重化学工業部門は、金属が一・二パーセント、一・六パーセント、化学は二・五パーセント、四・二パーセントであり、重化学工業化率は、二五・四パーセント、二七・七パーセントとなっていた(北海道庁統計書)。機械器具のなかでは、とくに採鉱選鉱及精錬機械器具、車輌船舶航空機部分品などが多かった。
 戦時期の重化学工業の発展の一端をいくつか紹介しよう。鉄道車輌の修繕を主な業務としていた鉄道省札幌鉄道局苗穂工場では、機関車製造に着手し、昭和十三年十月に道産第一号のD51型機関車を完成させ、以後十六年まで毎年二~五台製作した。十四年二月完成のD51は、東京鉄道管理局新鶴見機関区に配置される(北タイ 昭14・2・24)など、道外需要にも応じていたのである。この時期には、客車も鋼鉄製へと転換し、とりわけ十五年に初めて客車を新製する際には、新潟鉄工所、田中車輌、日本車輌など先進工場への視察を行い、万全を期して対応していた(日本国有鉄道苗穂工場 苗穂工場五十年のあゆみ)。十一月の試運転結果も上々で、室蘭・札幌間、小樽・野付牛間で用いられる予定だという(北タイ 昭15・11・21)。
 株式会社藤屋鉄工所では、十二年に室蘭の日本製鋼所から、おそらく戦車の砲塔の一部になるとみられる鋼板の切断・縁仕上の発注があった。また、横須賀海軍工廠の久保大佐(札幌出身)の指示を受けて、札幌鉄工業界の兵器受注が始められた。藤屋鉄工所の場合、生産額に占める兵器の比率は、十三年には約三〇パーセント、十四年には約六〇パーセントであったという(藤森安太郎 藤屋系鉄工史 明22~昭50)。野口丈夫は、日中戦争開始後豊平に合名会社野口製鋼所を興し、十四年から札幌では初めて電気炉を用いた本格的製鋼を開始した。これが後の豊平製鋼である(豊平製鋼社史編纂委員会 豊平製鋼半世紀の歩み)。
 次に、当時の町村部についてみてみよう。統計がない昭和十七年は、琴似町所在の工場が判明するので、可能な限り工業部門別に分け表22に掲げた。本多鉄工場は、以前土屋鉄工場として鉱山機械、製紙工場用機械を製作していたものが、昭和十四年東京の本多産業に吸収されたもので、戦時期には、捲上機、コンベヤー、ポンプ、炭坑車などを生産した。有限会社琴似製作所は、炭坑用機械部分品、農機具の製作・修理に当たった。北海製紙は、十二年に小樽から進出した。北海道理化学工業は十年、三星製薬工場は十一年の設立で、家畜薬品を生産した。北聯除虫菊工場は、八年に北海道除虫菊工業組合工場として設立されたものを、北聯が買収したのである。浅野セメントスレート部工場は、十四年に設立され、屋根用鉄板の払底に伴い、代用品としてスレート(石板)を生産した。北海道模型飛行機製作所は、軍需用木工品生産の会社であり、清水貿易工場も、製材を主にしていたようである。北海水産工業研究所は肝油を、日本食品製造合資会社は道産農畜産物の缶詰を製造した(琴似町史)。
表-22 琴似町の工場 (昭17)
部門工場名
機械器具本多鉄工場,有限会社琴似製作所
化学
 
北海製紙琴似工場,三星製薬琴似工場,北聯除虫菊琴似工場,北海道理化学工業矢沢薄荷札幌工場曽田香料札幌工場札幌生化学工業所
窯業浅野セメントスレート部札幌工場,東洋瓦製造工場興亜セメント瓦工場
紡織帝国繊維琴似工場
木材小熊製材,合資会社北海道模型飛行機製作所清水貿易琴似工場
食品
 
札幌焼酎琴似工場,北海水産工業研究所日本食品製造合資会社琴似食品工業有限会社
その他北海燃料商会琴似工場日本貴石工業北海コークス琴似工場
1.株式会社の表記はすべて省略した。
2.琴似町役場『琴似町所在会社事業所調』(昭17),『琴似町史』(昭31)より作成。

 豊平町には、昭和十三年の工場調査によると、大久保窯業北光製革日北酸素合資会社の三工場と、定山渓方面の五発電所があげられているという。統計数値がわかる昭和十二年の製革高は、牛革八二〇〇枚、馬革三五二枚、その他三万一五一九枚であった(豊平町史)。日北酸素は、スキー板を曲げるために酸素が用いられることに着目し、工場はしだいに大きくなり、従業員一〇〇人ほどに達した。また、十三年の調査に載っていないが、荒川要助が、十三年頃ミッテル化学研究所を設立し、米糠、タラの肝臓、蚕の蛹、乳酸菌などを用いてオーゲンという整腸剤を生産し、最盛期には五〇人ほどの従業員がいたという(澤田誠一 平岸百拾年)。このように、土地取得が比較的容易な町村部において、新規事業が続々と行われていたのである。