続いて札幌酒類食料品荒物雑貨小売商業組合では、九月から企業合同実行委員会を開き、約三四〇軒を一二〇~一三〇軒に整理統合する案を検討し始めた(北タイ 昭15・9・22)。しかしこれは長引き、一年後になっても総合配給所案、統制品合同案、地区的共同経営案、株式会社創設案の四案が対立していた(北タイ 昭16・9・18)。しかも三〇〇人を超える組合員を擁する大所帯で、九月十七日に市役所で開かれた合同準備委員会でさえ六四人もの委員が集まっている。この日の準備委員会は、小委員会委員の選出方法をめぐって、組合理事から選ぶか分科会から出すかで二時間も揉めたのである(北タイ 昭16・9・18)。その後、青年層と役員との対立、役員の総辞職などを経て、翌年初頭に合同案を起草しているが、昭和十七年八月一日現在で組合員数は五〇〇人なので(商業組合中央会 北海道商業組合名簿 昭17・8・1現在)、整理統合された様子はない。札幌国民職業指導所吉田所長は、「皇軍が南方で赫々たる戦果をあげた結果、この感激に浸った中小商工業者は自己の営業状態も忘れ、転業する事も忘れて了った形」だと批判した(北タイ 昭17・3・14)。
転業が進まない原因の一つとして、転業先に想定されている工場、鉱山の待遇、労働条件が劣悪であり、転業の意欲を減退させていたことが指摘できる。札幌職業指導所もたとえば、工場、鉱山に限定せず、農業への転業をも認めるなど「暗礁突破作戦」を立てている(北タイ 昭17・6・28)。また、道内主要工場、鉱山の事業主と懇談を計画したり(北タイ 昭17・7・15)、転業先である国策パルプ旭川工場、滝川の人造石油工場、室蘭の日鉄工場の実地見学会を組織したりしている(道新 昭18・2・14)。
戦局が悪化し、物資不足が顕著になる十八年には、中小商業者の多くの者には、もはや転業しか道は残されていなかった。ただし、商店街は商店街の姿を残すこと、百貨店は生鮮食料品取扱を停止すること、小売市場は食料品必需品総合配給所として活用することが方針とされた(道新 昭18・2・17)。カフェは七月には約一〇〇軒あったが、八月の大整理により十二月には四五軒となった。カフェ太陽の主人吉岡権十郎は「働き盛りの若い女を集めて酒を売って客を堕落させる商売など、も早や存在の理由がない」と言い切った。また、喫茶店は四二軒から三五軒になった(道新 昭19・1・5)。札幌青果小売商業組合は二月二十六日企業整備委員会を開き、三〇四軒の業者のうち一二〇軒が転廃申請を出したことを明らかにした(道新 昭19・2・27)。三月五日は「享楽停止の日」とされ、これを機に割烹料理店四八軒一〇〇人、料理屋三〇軒六五人、カフェ三八軒一四〇人、芸妓二一九人、置屋業一五一人、朝鮮バー四四軒一〇〇人、洋酒スタンド一六軒二〇人が休業を申し合わせ(道新 昭19・3・5)、その後国民動員署で転業先を斡旋している(道新 昭19・3・25)。もっとも、この段階までこれだけ多くのサービス業が存続していたことに驚かされる。
十八年から本格化した企業整備の結果、商業者は表35のようになった。生活必需品は配給により各戸に供給された。これら残存業者は配給制度のなかで役割を果たしたものと思われる。また、生活困難な転廃業者五四一人には、道中小商工業者共助会札幌支部から共助金が支給され、その額は二一万七三七〇円にものぼったという(道新 昭20・1・30)。
表-35 中小商業の企業統合 |
業種 | 昭17年末 | 19年末 |
食料品雑貨 | 555 | 220 |
金物 | 76 | 38 |
陶磁器硝子 | 35 | 19 |
自転車 | 101 | 95 |
繊維製品 | 439 | 83 |
男子洋服 | 309 | 157 |
婦人子供服 | 86 | 50 |
時計 | 78 | 73 |
青果 | 349 | 162 |
鮮魚塩干魚 | 296 | 208 |
医薬品 | 185 | 101 |
乾菓子 | 262 | 79 |
豆腐製造販売 | 80 | 72 |
菓子製造 | 316 | 67 |
印刷 | 86 | 37 |
合計 | 3,253 | 1,461 |
『道新』(昭20.1.30)より作成。 |