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馬産

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 『北海道農業発達史』(下巻)によれば、「大正期の後半期以降、(中略)馬産もまた、大きく転換するところとなった。すなわち、従来主として太平洋側の降雪量の少ない地方において、農耕とは無関係に行なわれてきた馬産は、大正の後半期以降は、農耕用の牝馬を繁殖に供用するという形で、農家の副業として、道内いたるところにおいて行なわれるにいたり、これが馬産の主流をなすにいたったのである」とあり、あわせて、このような農耕馬の繁殖供用の一般化、換言すれば農家による副業的馬産が、馬牧場の衰退ないし変貌をともないつつ、進展したことが指摘されている。札幌地域の馬産に関する資料も至って乏しいのであるが、この時期における馬産の動向の、札幌地域におけるあらわれを確認することは不可能ではない。まず、農家による副業的馬産の進展については、
 大正の末から昭和十年頃にかけ、大字烈々布方面では農業の副業として繁殖用牝馬が飼育された。その飼育者は漸次増加して隣接の琴似町にある馬市場に市場馬として出す者が大勢あった。昭和十三年軍用馬の買上げが実施され、本村から総数一四〇頭を戦地へ送ったのであるが、此の頃から馬の飼育に対する関心が非常に昂まって来た。即ち大正十三年に設立されていた札幌村畜産奨励組合が馬種改良事業推進のため活発な活動を始めた。その一つとして丘珠に種付場を設け国有馬、道有馬、組合有馬、或は個人有馬等の種牡馬をして本村飼育者のために大いにつくした。その後同組合も数年間事業を続けて来たが、戦時中その機構等の改善から昭和十七年十月本村農業会にその事業の一切を移管した。
(札幌村史)
 明治三十年代から開拓が進み農地が増えるに従って農馬の需要が増大し、プラウ農耕の奨励によって馬格の改良も急速に進み、馬種は農家の要望するペルシュロン重種系を中心に普及され、明治末期には和種・洋雑種略同数となる。やがて大正時代に入り、農家一戸当たりの耕作面積が拡大されるに及び、農耕馬の飼養が逐次盛次を呈した。(中略)かくして、農耕馬の普及とともに、繁殖を供用した副業的馬産が奨励され、大正十五年十月八垂別に於て第一回藻岩村産犢駒品評会が開かれ(中略)この会は後数年継続されている。大正十四年五月八垂別畜産組合を設立し、優良馬の改良・繁殖の奨励に努め、副業的現金収入の方途を開いた。而して昭和七年には飼養頭数が最高に達したが、農耕馬の普及が一巡するにつれ、需要の伸びは期待出来なくなっていった。昭和十五年から軍馬資源保護法による軍用保護馬の検定・検査が行なわれた。
(さっぽろ藻岩郷土史 八垂別)

といった札幌地域の町村史の記述と、前掲表32を参照すれば十分であろう。他方で、それらの町村史には、この時期の馬牧場についての記述を全く見出すことができないのであるが、このこと自体が、札幌地域における馬牧場の衰退を示すものと受け取って差し支えないであろう。
 ところで、札幌地域の馬産地といえば、何といっても篠路村にまず指を屈しなければならない。篠路村のペルシュロン種は俗に「石狩ペル」と呼ばれ、馬産地として第一級の栄誉を担うとともに、村の経済面においても、「平均農家の年収入の二十パーセントが馬による収入」(篠路村史)であったといわれるように、米や玉葱に次ぐ重要性をもっていた。しかし、篠路村の馬産史が石狩川の水禍と深い関連性をもっていたことはあまり知られていない。以下に引用する『篠路村史』によれば、同村が本道有数の牧草生産地であったこと(自然的条件)、及び石狩川の水禍による村民の疲弊窮乏を克服しようとする意欲(社会的要因)とが相俟って、「馬産地として押しも押されもせぬ地位を確立」したことが述べられているわけであるが、これこそ、すでに述べた地帯農業確立へ向けての先駆的な努力であったといえよう。
 本村の馬産史が、真駒内種畜場からペルシュロン種をとり入れた最始は明治三十三年である。これより二年前の明治三十一年には石狩川の大氾濫により全村悉く水びたしとなり大損害を被っている。(中略)この自然の猛威に対抗するためには治水も必要であろうが、水禍によって一朝にしてその年の努力の結晶を奪い去られない工夫をすることである。それがためには農作物一本に依存する単純生産型でなく他に何かもっと安定した収入源を捉え複数生産性に移行しなければならないのである。そこで考えられることは村内に生産され而も優良である牧草を基とし、これと結びつく何ものかを探し出すと云うことである。ここまでくると次に解答として出てくるものは牧畜である。牧畜と云っても明治三十年代としては馬しか考えられなかったこと当然のことである。
(篠路村史)