前巻で示したとおり、現在の札幌市域では、手稲や定山渓方面に多くの試掘権が設定されていたが、多くは試掘で終わっていた。しかし第二次拓殖計画推進のなかで、鉄と石炭などの鉱産物の自給確保の方針がとられ(北海道拓殖開墾及び耕地改良計画に就て〔坂北海道庁長官説明要旨〕 中原謹司文書)、昭和六年(一九三一)には道内の稼行鉱山は一一四にすぎなかったが、戦時増産体制も相俟って、十五年(一九四〇)には六八七にまで増加した(新北海道史 第五巻)。そのような状況の中で、現在の札幌市域に昭和に入って鉱山経営を行ったのは、手稲鉱山、豊羽鉱山、札幌鉱山などであった。