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鉄道従業員組合と札幌合同労働組合

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 大正十四年九月二十四日、評議会幹部山本懸蔵が、政治研究会札幌支部員らの斡旋により苗穂の鉄道工場に入り、大門隆三ら労働者有志に労働組合の組織化を指導した。組合の結成は困難であったが、十五年五月、日本鉄道従業員組合苗穂支部を結成した。稼働労働者八〇〇人のうち六〇〇人が加盟した大組織であった。しかし昭和二年に解散を命じられた。大門隆三はその後労働運動家となった。
 一方、中村善太郎岩本三郎らは本州での経験を活かして、零細工場の労働者に呼びかけ、十四年十一月、札幌合同労働組合準備会を結成し、小鉄工場や新聞店の労働争議で経験を積み、十五年一月二日、札幌合同労働組合を発足させた(北海道労働組合一覧表)。札幌合同労働組合は、評議会加盟を決定し、治安維持法反対運動など政治運動をくりひろげたが、中村ら創立メンバーは評議会本部の政治主義に賛同せず、組合活動に消極的になってしまった。七月には函館から沼山松蔵が来札し、合同労働組合の実質的指導者になった。
 札幌合同労働組合は、治安維持法下の札幌における最大の労働争議・北海道製綱争議(後述)に勝利し、多くの青年労働者を意識化することに成功し、大正十五年十一月十五日、全日本無産青年同盟札幌支部を組織した。北海道製綱争議で活躍した女工の参加が、組合や同盟の幹部を喜ばせた。昭和二年になると、札幌合同労働組合ははなばなしい運動を展開したが、犠牲者が続出した。
 しかし、昭和三年三月、三・一五事件により、札幌合同労働組合や無産青年同盟支部は壊滅状態となり、札幌合同労働組合は五月十九日に正式解散してしまった。その後、深谷作次郎大門隆三遠藤誠相沢純一らによって、三年十月、合同労働組合の後継組織である札幌一般労働組合が組織された(本道ニ於ケル左翼労働組合運動沿革史)。この組合は失業反対闘争などを果敢にくりひろげたが、五年十二月一日、全協事件(後述)で中心活動家を失い、活動不能の状態におちいり、六年三月再建をこころみたが、七月二十七日に組織された中間派の全札幌労働者組合(組合員二〇人)に、札幌労働運動の指導権を奪われ、活動を停止した。