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メーデーの歴史

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 労働者の祭典といわれるようになったメーデーは、治安維持法時代には闘うメーデーであった。全国の第一回メーデーは大正九年五月二日に開催され、この時、夕張の労働者もメーデーを開催したが、その後は北海道での開催はなく、ようやく大正十五年に小樽、函館で開催された。
 札幌で開催されなかったのは、メーデー準備を進めていた四月に、札幌合同労働組合の幹部が、北大生の秘密出版事件に連座して検束されたためであった。札幌合同労働組合員は、小樽のメーデーに合流した。
 昭和二年、札幌最初のメーデーが開催された。主催団体は札幌合同労働組合で、多くの労働者が参加するのではないかと期待されたが、各工場が労働者の参加を禁止したため、参加者は合同労働組合幹部一一人にすぎなかった。しかしスローガンは左派組合だけに戦闘的で、治安維持法撤廃、軍閥政治反対などの政治的要求もかかげていた。
   昭和二年 メーデースローガン
一、健康保険料政府資本家負担   一、悪法反対
一、八時間労働制確立       一、失業反対
一、官業労働者政党加入自由    一、授業料撤廃
一、耕作権罷業権団結権の確立   一、軍閥政治反対
一、議会解散普選即行       一、治安維持法撤廃
一、青年訓練反対官僚的支弁撤廃  一、対支絶対非干渉
一、男女満十八歳選挙権獲得
(本道ニ於ケル左翼労働組合運動沿革史)

 人数が少数のため示威行動がとれず、デモは中止になった。
 昭和三年、四年は弾圧事件の影響でメーデーが開催されず、五年になってようやく中間派、左派合同のメーデーが開催された。この時はじめて五〇人のデモ行進が行われ、札幌一般労働組合相沢純一が検束されるなど、当時のメーデーらしい展開をみせた(札幌控訴院管内社会運動概况 第二輯)。その後、札幌メーデーから左派の姿が消え、本州とは異なった温和なメーデー風景が続くことになった。六年のメーデーは、五〇人参加のさびしいメーデーであったが(北タイ 昭6・5・2)、七年のメーデーは二〇〇人をこえる多数が参加し、札幌メーデー始まって以来の活気あるデモ行進が行われた。とくに駅前跨線橋のヨイトマケに従事していた女性が参加したため(北タイ 昭7・5・2)、のちのちまで話題になったメーデーになった。

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写真-9 メーデー風景(昭7)

 八年のメーデーは三〇〇人が参加(北タイ 昭8・5・2夕)。北大生洪達善(ホン・タルソン)から「メーデーに値しない」と酷評された九年のメーデーは、三五〇人が参加したが(北タイ 昭9・5・2夕)、十年のメーデーは参加者一三〇人に激減した。雨のせいもあったが、労働組合に対する失望も影響していた。私服警官と相合傘の参加者もみられた(北タイ 昭10・5・2夕)。この雨のメーデーが、治安維持法下最後のメーデーとなった。