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全協の若者たち

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 しかし、日本共産党の運動は消滅したわけではなかった。日本共産党は、その影響下に左翼労働組合である日本労働組合全国協議会(略称全協)を組織しており、北海道札幌にもこの地方組織を組織していた。札幌における全協の組織化は、四年暮から大門隆三遠藤誠らにより進められ、産業別に組織を作り、地区協議会を組織し、婦人部まで設けたが、五年十二月一日に弾圧された(本道ニ於ケル左翼労働組合運動沿革史)。
 六年八月十六日に、菊池恵一らによって地区協議会が再建され、「第二無産者新聞」「無産青年」の配布などを行った。これは九月末に弾圧されたが、六年末にオルグとして来札した相沢良によって三たび全協が組織された。
 相沢良は、佐藤千代、柄沢とし子、さらに乾貞子小竹乙子を同志に獲得し、男子同志と連絡をとり、全協の地区協議会を結成した。この組織は、郵便局、道庁、五番舘、池内、岩橋印刷、青バスなどに分会を作り、同志の結束を強めるため平和の滝付近でのピクニックやカルタ会を開催した。七年十一月二十四日に機関紙『北海労働者』を創刊し、青バスや石切場の争議を指導したが、八年四月二十五日にスパイの手引きにより弾圧された。軍関係施設で保母をしていた女性は軍法会議に付された。赤色救援会の責任者は拷問により発狂した(山岸一章 相沢良の青春)。
 その後、九年春から再建が進められ、五月に挫折したが、十年一月からまたも高橋典三らにより再建運動が進められ、全協本部と連絡がとれなかったため、札幌産業別労働組合として運動を開始し、機関紙『吼へる羆』を発行した。北大生の洪達善は、独力で『北大学生新聞』(第二次)を発行し、高橋らの運動を支援した(昭和十年七月事件調査報告書)。だが七月十日に弾圧が開始され、市内で五一人が検束された。札幌における全協運動は幕をとじた。