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抵抗する手稲鉱山の朝鮮人

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 札幌近郊における最初の連行者として手稲鉱山に到着した二九三人の朝鮮人労働者は、昭和十四年十月二十二日、就労を拒否し下山を開始した。理由は労働条件が約束と違うことであり、とくに食事が粗末なことであった。警官隊二〇人と地元民を動員して鎮圧したが、朝鮮人はなおも納得せず、十一月七日再び行動を起こした(特高月報 昭14・11~12、北タイ 昭14・10・23)。
 十一月七日、朝鮮人労働者一人が落磐で死亡したため、二九二人は遺体の送還、不可能の場合は、遺族の到着まで葬儀をのばすこと、土葬すること、葬儀まで休業などを求めて争議態勢に入った。警官隊が出動し、主謀者八人を検束してようやく騒ぎがおさまった。
 この争議は組織化された争議ではなかったが、十五年戦争末期の飛行場建設に就労していた朝鮮人労働者は組織化が進み、大規模な争議を起こす直前に敗戦となった(昭和二十年特高月報原稿)。