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争議の全道的状況

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 本節では、大正十一年(一九二二)に市制が施行されて以降、昭和二十年(一九四五)八月の敗戦にいたる間の札幌における農民運動の状況について取り上げる。そこで最初に、この間の全道的な小作争議の状況について触れておこう。
 表8は、小作争議の全道的な推移を、大正十一年から昭和十九年までの二三年間について示したものである。まず争議の件数は、大正期から昭和期に入ると共に急増を遂げ、特に昭和五年以降は一〇〇件を越えている。そして、昭和十年の三八八件を頂点として、以後は戦時体制の進行と共に次第に減少し、太平洋戦争が開始された十六年以後は二〇〇件を下回っている。
表-8 北海道における小作争議とその関係範囲
年次件数(a)参加人員関係土地面積(b) 

 (a)
(c) 

 (a)
(d) 

 (a)
地主(b)小作人(c)その他計(d)
大11
15件331人1,523人1,854人2,193.0町10,444.0町12,637.0町22.1101.5842.5
 12810967977650.02,403.03,053.01.396.7305.3
 1366100106285.1113.0398.11.016.766.4
 1479142151478.5246.7150.0坪[725.2
150.0坪
1.320.3103.6
 151520652672515.2549.1201.0町1,265.3町1.343.584.4
昭 241545866401,373.61,649.2700.53,723.31.314.390.8
  332524014531,449.2967.8323.42,740.41.612.585.6
  479879771,0642,302.81,209.8110.83,623.41.112.445.9
  51281902,0942,2846,856.33,050.4762.410,669.11.516.356.1
  61511942,3572,5514,777.95,719.13.310,500.31.315.669.5
  72182571,3741,6312,065.13,170.158.55,293.71.26.324.3
  82422518791,1301,912.22,197.3531.44,640.91.03.619.2
  93373661,8652,2313,956.23,278.51,350.68,585.31.15.525.5
 103883631,8612,2244,221.23,061.556.87,339.50.94.818.9
 113764041,3491,7533,556.01,611.2399.15,566.31.13.614.8
 123463651,0351,4003,075.61,127.7304.14,507.41.13.013.0
 132482641,2461,5102,819.82,424.8175.85,420.41.15.021.9
 141771866868721,590.71,482.4519.13,592.21.13.920.3
 152002329371,1692,355.21,972.2193.64,521.01.24.722.6
 16198265468733566.71,166.9690.32,423.91.32.412.2
 17109115202317244.3819.4227.41,291.11.11.911.8
 18110124273397572.7406.2221.51,200.41.12.510.9
 19132137385522760.7739.0346.71,846.41.02.914.0
1.誤植は一部訂正した。
2.『北海道農地改革史』上巻(昭29)より作成。

 このように、争議の発生件数は、ほぼ昭和十~十二年をピークとするカーブを形成しているが、ちなみに参加人員の中で、関係地主は十一年の四〇四人、関係小作人は六年の二三五七人、また関係土地面積は、五年の一万六六九・一町が最高値を示しており、必ずしも争議件数の増減とは対応していない。そこで、一争議平均の地主、小作人、土地面積の推移をみてみると、ほぼ昭和六年を境として変化がみられる。すなわち、地主は約一人平均に、また小作人数は一〇人以下となり、土地面積も同年の六九・五町から二四・三町と大幅に減少し、とりわけ十六年以降は一〇町歩台となっている。
 このような状況は、関係する小作農民の数が多く土地面積も大きいなど、全体として争議の規模が大きく、大農場から発生していった北海道小作争議が、大正十四年の日本農民組合北海道聨合会(日農北聨)の結成に示されるような農民運動の発展・高揚期から、昭和期に入って争議の規模が次第に縮小に向かったことを示しており、「存(ママ)村中小地主における土地争議が激増した半面、大地主農場における争議が少なくなった結果」(北海道農民組合運動五十年史 昭49)であった。
 そして、前述のような傾向は、戦時体制への移行とともにますます強まってゆき、争議は「小作人の団体的運動という性格を薄め、個人的抵抗の性格を強め」た。さらにその多くは「地主の土地引上げに対する小作人の反対運動」であって、「戦争経済の進展と食糧事情の逼迫にともない地主は自作を目的に、あるいは軍需工場等に小作地の転売をはかるために、小作人に対し土地返還をせまり、これに対し小作人は生活と耕作権を守るために抵抗したばあいが多く、この傾向は戦争が末期に近づくにつれて」強まった。争議手段も「官憲の干渉と農民の『自粛』によって合法的なおだやかなものとなり、地主小作両方とも小作調停による『円満解決』にいたるものが増加した」(法政大学大原社会問題研究所編 太平洋戦争下の労働運動 昭40)。