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北海道型の争議

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 このように、地主と小作人のそれぞれの立場についての指摘を行った後に、田部検事は北海道小作争議が集団化しやすい理由について次のように述べている。
 北海道に於ては、小作人は耕作地内に家屋を建て居住し居る関係上各府県に於て見る如く集団し部落生活を為さず、農家は比処彼処に点在す、近隣相倚りて会談する機会尠なく、且各府県より相集り各自生国を異にし、近隣情誼薄きを以て小作争議の煽動あるも伝播力遅鈍にして秩序的団体行動をとるに便ならず、然れども一地主の下に多数の小作人隷属するを以て、其地主のみに対する反抗に就きては衆議一決し易く、一旦争議の機運至るや団体的行動を執るに便なり。

 以上紹介したように、田部検事は北海道の農民運動について、農場の小作人が内地府県のさまざまな地域からの移住者によって構成され、それ故、農場内の集落が流動的であり、かつ散村的形態をとっているという、いわば北海道の農村構造のあり方に大きく規定されているとみるのであるが、その代表的事例が、大正中期から昭和初期にかけて繰り広げられた空知郡雨竜村の蜂須賀農場争議であった。
 これとほぼ同時期の札幌市域においても、篠路村の拓北農場(岩崎農場)で大規模な争議が発生し(市史第三巻参照)、その余波として、昭和初期には同じ篠路村の学田地や藻岩村の西野学田地で争議が繰り返されている。そして、これらの争議が収束に向かいつつあった昭和十年代に入ると、前述したように争議は集団的闘争の色彩を薄め、個別分散化して、いわゆる小作人の個人的抵抗といった側面が強くなるのである(この点は後述)。