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昭和五年の争議

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 この昭和五年の小作減免問題に際して、小作側の動きはどのようであったのだろうか。『円山学田地小史』には、ある小作人代表の日記の一部が紹介されている。この日記から小作人側の動きを追ってみよう。
〔昭和五年〕
十月七日 始めて総会を開き、円山学田地水田小作年貢は一反歩十円の契約なるも、米価暴落と本年の不作で、十円の金納は困難なれば、以前の如く米納とし、一反歩玄米四斗とするよう嘆願する事に決議する。
十月八日 南部与作斎藤銀蔵前鼻松次郎斎藤健次郎の四人で嘆願書をかく。
十月九日 斎藤銀蔵円山役場へ行き、詳細説明して嘆願書を提出。
十月二十九日 斎藤健次郎宅にて役員会。
十一月一日 役場よりの手紙により、前鼻松次郎斎藤銀蔵斎藤健次郎の三人円山役場へ行き、詳細願意説明。
十一月二日 斎藤健次郎斎藤銀蔵の二人で別の嘆願書をかいて出す(玄米四斗を納期時価換算の金納にすることにする)。
十一月十八日 円山役場より、米納の件も納期時価換算の件も認められず、二割減の八円と決定せる旨通知あり。
十一月二十日 山内方にて午後より年貢の件について総会を開いたが、出席者少なく中止して夜に開催、尚一応役場へ嘆願して聴き入れざる場合は不納同盟をする事に決議。
十一月二十一日 竹本、前鼻松次郎南部与作斎藤銀蔵の四人、円山役場へ嘆願に行きしも、村長不在のため道庁へ行き、小作官を訪ねて種々参考となる話を聞き、且つ今後嘆願しても聞き入れられず、遂に争議に入る如き場合の助力を頼む。
十一月二十三日 前鼻松次郎斎藤健次郎斎藤銀蔵の三人で、三度び嘆願書を書いて提出する。
十二月八日 広島倶楽部にて小作者総会を開き、あくまで今回の嘆願を貫徹すべく同盟書を作り、捺印して結果を誓う、且つ同盟の証として、年貢に対し一割に相当する金額を積み立てをしておき、万一同盟に違背せし者にはその金を返戻せざる事に決議す。
     同盟書
我等円山学田小作人一同ハ、藻岩村当局ニ対シ、米納復活ヲ嘆願セシモ拒絶セラレ、更ニ時価換算金納ノ哀願二回ニ及ブモ、尚且未ダ解決ノ曙光ヲ見ズ、実ニ死活ノ岐路此一挙ニアリ、飽迄最後ノ嘆願ヲ貫徹スル迄ハ、如何ナル迫害モ如何ナル強制ニモ屈セズ、我等ノ要求ヲ一歩モ退カズ、一同堅キ決心ト団結ヲセザランニハ必勝ハ期シ難シ、依テ茲ニ一同ノ決意ヲ表明スル証トシテ、連署シテ神明ニ誓ヒ、如何ナル事情アルモ決議ニ違背セザルヲ同盟ス
   昭和五年十二月八日
     南部与作 前鼻松次郎 山末藤太郎 前鼻梅吉 前鼻繁一 竹本庄之助 加須屋市助
     山城イヨ 橋場与三 斎藤銀蔵 野村甚太郎 毛利諭吉 山田幸太郎 飯山三太郎
     高田トへ 北出松次郎 工藤松太郎 斎藤健次郎 山内豊松 佐々木嘉次郎
     草刈寿次郎 大内嘉右エ門 加須屋権次郎 山田三次郎 鈴木重正 鈴木寅之助
     加須屋与三吉 黒田勉 赤坂権左エ門 金田仁右エ門
(円山学田地小史)

 以上の引用から、斎藤健次郎南部与作前鼻松次郎斎藤銀蔵の四人が、小作人代表としてこの時期の減免運動を指導していたことが明らかである。小作側は、最終的には「時価相場ノ四斗ノ金納」を戦術方針として採用し、十月から十一月にかけて三度の嘆願書を提出している。そして、十二月八日の小作総会では、「今回の嘆願を貫徹」するための「同盟書」を作成し、小作人一同は「捺印して結束を誓う」とともに、小作料の一割に相当する金額を徴収することとした。十二月十六日、南部与作等が二二人の小作人から集めた積立金は二五五円五〇銭となり、翌日北門銀行に預金した。