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小作料適正化運動

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 また、札幌琴似村の旧篠路兵村地区では、大正元年に土功組合が設立されて造田事業が開始され、畑作から水田への転換が進んだ。しかし、昭和初期の凶作や農産物価格の暴落で兵村地区の人々は大きな打撃を受け、小作が増加した。その後、昭和十年代になって戦時体制へ移行するなかで、十四年十二月、小作料統制令が公布された。
 小作の多い兵村地区での人々は適正小作料の実施に関心を持ち、一部有志がその実施促進と小作料の金納化に向けて運動を行った。そして、十六年六月「琴似村篠路兵村歎願者一同」は、賛同する小作農家百余名の名簿を添え「適正小作料実施歎願書」を琴似村農地委員会に提出したが、その中には、篠路兵村地区小作民の窮状が次のように述べられている。
 すなわち、「わが琴似村字篠路兵村は水田開発以来既に二十有余年の歴史を有するも小作料高率のため、且つ連年に亘る水害、不作、凶作のため、我々小作者の経済力は何等の向上を認むる能はず、近年一部自作農の創設を見たるも買入代金は殆んど起債に俟ちたる現状に有之(中略)ために心ならずも小作問題を引起し或いは離農転出の余儀なきに立ち至る次第にて、現在に於いて十五年秋期より今日までの間に五名の離農者を出したる、また故無きに非らず」と。そして、戦時下の生産性拡充に向けて、また「小作争議の発生を未然に防ぎ」「水田耕作の有望性を知悉せしめ、離農者の続出」を防止するためにも「合法的適正小作料の実施」を「歎願」すると結んでいる。これが発端となって、翌十七年、琴似町(昭17・2、町制施行)ではその適正が実現したのである(屯田部落七十年史)。
 この後、昭和十九年を最後として小作争議の全道的調査は姿を消すが、それでも十九年の場合、一三二件の争議があり(表8)、その原因の五五・三パーセント(七三件)は地主による小作地の引上げによるものであった。これに対して小作人の要求は、小作地の買受けまたは買戻し(五五件)と小作継続(四八件)の両者で、全体の七八パーセントを占めている。その結果は、両者の妥協五九件、小作人の要求貫徹三九件、同要求撤回三四件となっており、戦時体制の末期という状況のなかで、争議そのものは小作人の個人的抵抗という側面が色濃いとはいえ、それゆえに、小作側が自らの要求を貫いている点は注目すべきであろう。