バチェラーはその札幌での活動に対して、「アイヌの父」(北タイ 昭15・12・10)、「アイヌの慈父」(東京日日新聞 北海道樺太版 昭10・11・20)、「ウタリの恩人」(樽新 昭12・10・23)などとして高く評価された。しかし、これはあくまでも当時の新聞をはじめとするマスメディアの評価であって、その当事者であるアイヌ民族の側の評価ではないことに、十分に留意する必要がある。
アイヌ民族自身はバチェラーをどのように評価していたのであろうか。その第一の事例が、昭和二年に余市アイヌの違星北斗が詠んだ「五十年/伝道されし/此のコタン/見るべきものの/無きを悲しむ」という短歌である。この短歌はそれまでのバチェラーの活動への批判を込めて詠んだことは明らかである。第二のそれは昭和六年八月、バチェラーが主宰し、札幌の堯祐幼稚園で七〇人余りのアイヌ民族の青年が参加して開催された「第一回全道アイヌ青年大会」の議事である。この大会でバチェラーが提案した「ビー倶楽部」設立の件は賛成少数で否決された(樽新 昭6・8・4)。この「ビー倶楽部」とはどのような活動をする組織なのかは不明であるが、「ビー」とは英語の「Bee」=蜂を指し、「勤労」を標榜する用語として使用されている(北タイ 昭6・8・4夕)。アイヌ民族はバチェラーの意図とは異なる行動をとったのである。
第三の事例はバチェラーの「近文アイヌ給与予定地問題」への対応である。近文アイヌは土地の「無償給与」に向けて、さまざまな運動を展開したが、特に昭和六、七年には内務省や大蔵省などへの陳情活動を行った。この近文アイヌの自らの生存を賭けた運動に対して、バチェラーは「決してアイヌ自身の心からなる策動ではあるまい」(東京日日新聞 北海道樺太版 昭7・4・15)と語っている。この言説が歴史的事実に反していることは明らかである。
これらの事例を重ね合わせて考えると、バチェラーの行動は必ずしもアイヌ民族全般の支持を得ていたとはいえないのである。バチェラーの評価はこれらの事例も加えて、総合的に判断していく必要があるだろう。当時のアイヌ民族はバチェラーの意識に内在していた「たゞ亡びゆく民族」(東京朝日新聞 大15・10・23)ではなかった。余市アイヌの違星北斗が「『強いもの!』/それはアイヌの/名であった/昔に恥ぢよ/さめよウタリー」と詠んだことに象徴されるように、民族的自覚と自立を目指すアイヌ民族の意識は、バチェラーのそれと大きな隔たりがあったといえよう。
キリスト教者の立場からバチェラー研究を行ったピエール・ペラールは、バチェラーの活動が「キリスト教の本質とはちがう憐びんの情が行動原理となって」いたことを指摘している(キリスト教とアイヌ人)。