大正九年、北大教授の森本厚吉を主幹とする文化生活研究会が東京に誕生した。吉野作造や有島武郎を顧問に据え、北大教授の星野勇三・半沢洵・松村松年はもとより穂積重遠・河田嗣郎・河津暹、与謝野晶子等を講師陣に加えた研究会は、当時大きな反響を呼び、機関誌『文化生活』(大10・6刊)の売上げも順調で、講演会も盛会を呈した。札幌でもたびたび「文化問題」講演会を開き盛会であった(北タイ 大11・9・10)が、活動の拠点はおもに東京であった。
森本のいう文化生活とは、会設立にも関連するが、革命の回避のためには生活の「進化」「改造」が必要であり、そのための方法は労働組合などではなく、消費組合の活動に期待するものであった。森本の「経済活動の根本義」によれば、消費は生産の目的であり、個人消費生活を根本に据えていた。さらに「生活権の主張と其責任」では、中流以下の生活者がちびちび貯蓄する事は愚かなことと主張し、文部・内務両省の主導する勤倹貯蓄を含む教化政策と価値観において対立があった。
その思想は森本一人ではない。手塚かね子は「料理の根本精神」で、従来「生活の享楽」が否定されてきたが、新時代においては「肉体と精神との平等」が尊重されるべきと「生活の享楽」を肯定し、精神主義を否定した(文化生活 一巻二号)。
こうした森本をはじめとする文化生活研究会の主張は、都市中間層を対象に欧米型の生活様式を理想として展開されたが、「中流階級」は現実には相当高い所得者(森本のいう中間層とは、一家五人で年間約二〇〇〇円の所得者で、実際は一五〇〇円未満が大方であった)を意味し、実現不可能に近いものであった。
さらに、女性問題においては、河津暹が「婦人と経済生活」で主張したように、消費生活の主宰者たることが女性の役割であるといった、性的役割分業論に立っていた(同前 一巻五号)。また森本自身も「新婦人と文化運動」で、「我国民全体の福利を増進する為には婦人の力に俟たねばなら」ないが、「婦人参政権と云ふやうな問題にたづさはらなくとも新婦人の仕事は沢山に存在」(私どもの主張)すると、新良妻賢母論に立っていた。事実、森本夫人静子も大正十二年単身渡米、新時代にふさわしい家庭経営について各地を見て回り、『北海タイムス』にも寄稿している。これがのち、東京のお茶の水に創設された女子文化高等学院院長としての仕事につながっていく。
文化生活研究会の札幌との関わりは、メンバーに北大教授が数人加わっていたにもかかわらず、あまり影響があったとは見受けられない。研究会自体、関東大震災の直前に、森本自身が新たに文化普及会を結成しての離脱や、顧問有島武郎の死によって一変した。しかし、森本厚吉が提唱した文化生活運動は、民力涵養運動の上からの教化運動とは対抗的な役割を担い、人間の欲望の解放を生活上の進歩と肯定したところに新しさ、魅力があった。やがて、文化住宅、文化鍋などとなって風俗化してゆく。