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戦いのなかへ

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 太平洋戦争の第一歩である満州事変(昭6・9・18)勃発の第一報を聞いた札幌市民の対応は、関西諸都市の反応に較べかなり冷静であったようである。もちろん、『北海タイムス』昭和六年九月二十日の夕刊第一面には、他の主要紙と同様に「奉天の支那軍、突如わが守備隊を襲撃」と大々的に報じられている。
 とはいえ、「七師団将卒も急に緊張、侮り難き支那兵」(北タイ 昭6・9・20夕)の記事と並び、「日支戦禍による本道対支貿易の影響」(同前)など、経済面への影響も憂慮されている。戦争が市民の行動と積極的に結び付き始めるのは、戦闘が中国東北三省(旧満州)の中部以北に入ってから(昭7・1ハルビン占領)である(もちろんそれまでもかなりの支援運動はなされてはいたが)。
 昭和六年十一月二十八日付の『北海タイムス』によると、札幌市立高等女学校生徒有志が満州派遣軍に金二五円三五銭、慰問袋二〇〇個を献納するため陸軍省に送った。同日には二女性の献金の記事も記されている。
 以下同様の記事を拾ってみよう。「芸妓連百名から兵隊さんたちへ心つくしの慰問袋」(11・29)、「漲る祖国愛 女性の献金特に多い札幌市」(12・1)、「祖国のために女中さん一月のお給金献金」(12・2)、「涙ぐましき祖国愛 八十三歳のお婆さんや老行商人の売上げ献金」(12・3)、というごとく、札幌市民の献金や慰問袋の献納がますます盛んになっていった。こうして十二月十五日現在、札幌市役所で受け付けた献金は三三〇〇円を突破した(北タイ 昭6・12・16)。
 また、札幌市以外でも、「老婆」が孫娘を「是非満州に行って御国の為働かして貰ふように」兵事課へ出頭したり(北タイ 昭6・12・5)、五人の「少女慰問使」が第七師団司令部と旭川市役所の後援で「満州軍」に派遣され(北タイ 昭6・12・11)、同一行は翌七年一月に帰国し、子供向けラジオ番組の「お話と唱歌」で「在満皇軍慰問の旅を終へて」を放送している(北タイ 昭7・1・20)。七年三月二十一日には、「札幌芸妓歌舞伎」の「芸妓連」は「軍用飛行機北海道号」の基金として八一円五〇銭を市当局に献納したとある。
 以上は女性の例ばかり引いたが、もちろん男性からのそれもあるが、なぜか少ない。札幌市内の女性の戦争への反応は、男性に較べ早かったようである。このことと関連があるのかどうかわからないが、愛国映画『戦争と少女』が、北海道庁、歩兵第二五聯隊、北海タイムス社の後援で、七年七月十四日より市内松竹座で上映されている(北タイ 昭7・7・14)。
 この間の昭和六年十二月十一日より十五日まで、今井呉服店で「満蒙展覧会」が開催され、管陸軍大佐による講演「護れ満州、我が帝国の生命線」が行われている。

写真-6 満蒙展覧会(北タイ 昭6.12.10)

 七年四月、札幌市内の店頭も軍国色となり、子供の玩具も鉄兜(ヘルメット)帽、上等兵の肩章星三つ、大砲、タンク、軍用列車、爆撃機、軍刀などといったものがあとからあとから売り出されるようになった。またレコードもジャズや小唄は頽廃的とみなされ、勇壮な軍歌が好まれた。カフェーでも「爆弾サービス」といった宣伝をするありさまであった(北タイ 昭7・4・3)。そして、「銃後の護り」(帝国軍人後援会北海道支会主催)といった、戦勝のかげにある銃後の護りを力説する講演会が頻繁に開催されるようになる(北タイ 昭7・5・26)。
 こうして、札幌市民は次第に戦時体制に組み込まれていった。七年三月十二日付『北海タイムス』には、「満州国」に職を求め「群をなして殺到」し「治安をみだし(中略)邦人の対面を汚す」ので「充分注意を与へるやう」、道庁は直ちに各市、各支庁に通牒を出したのがみられる。こういうものが出されたところをみると、札幌市にもどさくさに紛れた「濡れ手に粟」組はいたようである。