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バタヤと新スラムの形成

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 大正末から昭和初期の不況期に、札幌に流入してくる失業者が浮浪者化し、豊平の細民街をはじめ豊平川沿いに集落を作って居住しはじめた。豊平川にかかる東橋の右岸に、丸太を寄せ集めた上に鉄板を張り合わせて雨風をしのぐ程度の小屋が建ちはじめ、昭和九年十月には九五戸にもなっていた。新スラムの形成である。バタヤ(屑拾い)業を営むものが多いことからバタヤ集落、通称「サムライ部落」と呼ばれ、一区~四区の区長からなる親交会を組織していた。バタヤは、紙屑、鉄屑、ガラス屑、ボロ等を扱い、月給一〇円の収入になった(北タイ 昭9・10・7~13)。
 十二年、日中戦争突入とともに鉄類、紙屑、古ゴムが高騰し、空前の景気に湧いたが、翌年には戦時統制のため物資供出等によりバタヤ業から日雇いに転業しなければならなくなった(北タイ 昭13・8・25)。やがて十五年、「お国のため」に炭鉱労働者になることを会合で決議、産業戦士として立退くこととなった(北タイ 昭和15・11・10)。なお、十四年には「サムライ部落」からも応召者五人を出した(北タイ 昭14・12・23)。また、南一条橋下流沿いにもスラムが形成され、昭和十年の国勢調査段階で九人居住が確認されている(北タイ 昭10・10・2)。彼らは、白石遊廓地帯を中心とする紙屑拾いをおもな業とした。