結核は、当時「亡国病」とまで呼ばれ、札幌の患者数の多い理由としては、もともと呼吸器病が多いところ多人数雑居とか栄養不良、非衛生といったことがあげられた(北タイ 大15・5・1)。一家に一人患者が出れば家族内感染は避けられず、一刻も早く患者を隔離・療養する施設が求められた。しかし、療養所の候補地住民の強い反対により、難航に難航を重ね、設置問題は昭和三年十一月の「円満解決」を待たなければならなかった(樽新 昭3・11・2)。とにかく、大正十五年以来結核死亡率全国一の不名誉を背負わされた札幌市では、昭和二年の場合でさえ六七〇人の死亡者を出し、道内市・支庁別でも第一位、人口千人比で四・三四人といった数字を示し、前途ある青年男女の生命が次々に失われてゆくといった憂慮すべき事態にたちいたった(北タイ 昭3・6・27)。しかも、内閣統計局の発表によれば、一五~四五歳までの死亡率では同じ年齢の男性よりも女性の方がいちじるしく高いことも明らかにされた。それは、妊娠・出産による体力の消耗、粗食による栄養不良が死亡率を高めていたからである(北タイ 昭4・3・4)。
このため、札幌市結核予防協会では市民の健康診断を密にし、予防に関する講演・活動写真で宣伝する一方、市民から結核予防の標語やポスターを募集し、予防宣伝につとめた(写真11 北タイ 昭4・6・27)。
写真-11 1等入選の結核予防ポスター(北タイ 昭4.6.27)
昭和五年十月一日、札幌郡琴似村(現札幌市の一部)に札幌市立療養所が開所し、はじめて結核患者を収容した。表39は、昭和五年から十八年四月日本医療団に引き継がれるまでの入院患者および死亡者数である(数字は必ずしも市内患者数とは限らない)。十二年以降の患者・死亡者数の増加は、戦時下における生活環境の悪化、栄養不良によるものと考えられる。日本式結核予防対策は、ツベルクリン反応の検査、レントゲン検査による追跡、ツベルクリン陰性者に対するBCG接種といったパターンであるが、あくまでも国家的要請からであり、必ずしも一人一人の生命を守ろうといった思想にもとづくものではなかった。