ビューア該当ページ

国民保健から体位向上へ

803 ~ 804 / 1147ページ
 「亡国病」とまで呼ばれた結核や法定伝染病等の巣窟ともなっていた当時の札幌市は、「健康」都市と呼ぶにはほど遠かった。それゆえか、昭和初年は「国民保健」や「健康週間」などの名のもとに体位向上が叫ばれた。昭和四年六月一日、札幌健康保険署内に健康相談所が開設され、喀痰・尿・糞便・血圧検査等から健康診断等まで市民の求めに応じて行われた(北タイ 昭4・6・1)。また、翌五年十月より札幌市では「健康週間」を設け、衛生思想の普及啓発、国民保健の改善向上をはかる目的で市民を総動員した。その実施要項には、保健衛生市民大会をはじめ、衛生展覧会、衛生相談、体力検査なども盛り込んでいた(札幌市事務報告)。その一方、貧しい人びとのための無料診療所として恩賜財団済生会が診療を開始したり(昭5・10)、北海道社会事業協会附属札幌病院が開業(昭7・4)、また道庁立健康相談所も札幌に開設され(昭9・3)、レントゲン検診、ツベルクリン反応、喀痰検査を行い、結核患者の早期発見につとめるなど(北海道庁統計書)、医療体制も整ってきた。十一年の陸軍特別大演習に際しては、「健康北海道」が声高に叫ばれ(北タイ 昭11・5・2夕)、十二年の日中戦争突入を前にして、陸軍省の一軍医は国民体位向上を目的に「新運動法」を提唱し(北タイ 昭12・5・30)、また市内女子高等小学校では女生徒に「太陽灯」を照射させ、「母性の健康」保持を考案するのだった(同前)。
 十二年四月、保健所法が公布(七月施行)、翌十三年四月旭川市に道内最初の保健所が開設され、健康相談、衛生思想の普及・指導機関として機能した(14年小樽・帯広、15年室蘭に開設)。札幌市の場合、道庁立健康相談所や札幌市立療養所等がその代わりを担った。
 これより先、社会保険制度の先駆として、大正十一年四月、健康保険法が公布され、十五年七月施行となった。昭和十二年八月現在、道内の健康保険組合は三二、被保険者は三万八〇〇〇人に達した(北タイ 昭12・9・5)。一方、農山漁村住民その他一般国民に対する国民健康保険法も昭和十三年四月に公布、七月施行された。ついで、複数の省庁にわたっていた保険・保健・衛生行政を一本化する必要があったため、十三年一月、厚生省を設置することが勅令で決められた。
 十二年に始まる日中戦争以降、国民保健、体位向上はますます声高に唱えられ、ラジオ体操が学校、職場等に導入され、十五年八月一日の興亜奉公日には「奉祝ラヂオ体操」が市内各地で実施された(北タイ 昭15・8・2夕)。