女性の中等学校進学率がぐんぐん伸びていった昭和初期において、長引く不況は、卒業後何らかの職業に就きたいと願った女性たちに失望感を与え続けた。だが、皮肉なことに日中戦争以後、まず軍需関係に直接間接的に関連する職種の部門から男性の採用が大幅に伸び、失業率を緩和していった。昭和十三年九月段階には、男性労働力不足さえ囁かれ、それを補うために賃金の安い女性の採用が目立ってきた。市内官公衙、会社、商店では女性事務員・店員の求人が多くなり、なかでも電話交換手やタイピストが引張りだこであった(北タイ 昭13・9・16)。十四年に入ると、「『先生飢饉』補充策に未採用の女教員動員」といった具合に、日中戦争後、応召による教員払底をきたし、女教員の「動員」となった(北タイ 昭14・1・29)。
このような、男性労働力の代替として女性の労働市場への登場は以後増加傾向をたどった。十四年中には、女子旋盤工、郵便局女子集配人が現われ、札幌職業紹介所(国立)でも、機械工補導(旋盤科、仕上科)に試験的に女子を入所させることにした(北タイ 昭14・11・25)。十五年には、労働力不足の非常時から「銃後の婦人も職場へ」と、女子産業報国隊が結成された(北タイ 昭15・3・23)。こうして、男性の代替としての女性の職域はますます広がりをみせ、同年六月には、札幌放送局では「女性の職場を探る」と題して、生産の第一線で働く女性たちの生の声を放送するのだった(北タイ 昭15・6・13)。
十六年八月、閣議で労務緊急対策要綱が決定、「婦人の動員」を含む国民皆働体制の確立が図られた。以後「奥様も皆出て働く」国民皆労運動が展開され、札幌でも軍需工場へ「短時間労務」に携る女性が増加してくる(北タイ 昭16・9・14)。十月一日、「国民労務手帳」の施行により「遊休婦人」の登録が開始された。十二月八日の太平洋戦争勃発後は、出征兵士の代替として女性労働の重要工場への動員は一層強化されてゆく(昭17・1・10労務調整令)。
札幌の帝国繊維工場では、十六年十一月十勝支庁管内本別から、また十七年三月には全道各地から女子勤労報国隊員(おもに農家の子女、女学生)を札幌国民職業指導所の協力で募り、「輝くお嬢さん部隊」として増産に協力している姿が見られた(北タイ 昭17・3・31、5・24)。労働力不足はますます深刻となり、同年七月三十日には聨合公区を通じて女子報国挺身隊員募集が決定されたり(北タイ 昭17・8・1)、事実夏期休暇の児童・女学生までが被服工業所で実習生として働いた。
十八年五月、女性の勤労動員促進が閣議決定された。これにより九月には「女子勤労動員促進ニ関スル件」が閣議決定され、学校長や女子青年団長、大日本婦人会長など、職場、地域の長によって、一四歳から二五歳まで(のち一二歳から四〇歳までに拡大)の未婚女性を対象とする女子挺身隊が組織された。以後、戦局の拡大は一般女性をも巻き込み、軍需工場のみならず運輸、通信等あらゆる部門で女性労働の動員が行われた。こうした動員は二十年の敗戦まで続けられ、都市女性の職業意識にも影響を与えた(北の女性史)。