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戦争末期の隣組業務と生活の諸相

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 太平洋戦争末期における隣組の実態を、桑園聨合公区第一〇公区第一〇班の『日誌』を中心に一部他の史料で補ってうかがうこととする。『日誌』は、十九年十月一日から開始され、班長が記録したものである。だが記述は公区・班の事項を中心に、「公」の部分にとどまらず「私」の部分にまでおよぶ。十九年十月十一日の班常会に公区長(斉藤)、副長(佐藤)が出席して、班長(半沢)、雑務・庶務、警防、納税等の係が決められた。
 この班は、十九年一月の「設置規程」の改正により、同聨合公区第一六公区の一部が第一〇公区に編成替えになったものである。なお、第一〇班の位置を現在の住居表示になおすと、北五、六西一二丁目の一部を中心とした地域である。世帯は一三戸六六人の構成である。二十年一月から敗戦までを記載頻度の高い順、班すなわち隣組業務、入隊、配給、貯蓄報国、警防、動員等といった分野別でみてゆく。
隣組業務〕三月末段階で、一月から三月までをまとめ書きしているので拾ってみる。二月七日常会の出席者一〇人、欠席三人、出産一人、入隊者九人、赤十字社入社調一七人(うち新規加入者六人)、比島戦決勝突撃貯金高、アルミ貨交換、防空資材搬出、煙草・石炭配給、主要食糧配給人員申告書、国民組合貯金・国債消化、荷物疎開、非常事態発生時の主要食糧確保方等々、総合口として多忙である。毎月四日が公区役員会、七日が班常会となっており、四月四日の役員会では、予算、配給物資購買票、祝物件、婦人組に協力、衣料疎開等々八項目が協議事項であった。続く七日の班常会では、公区長を入れて一〇人が出席、三月十日の東京都被災状況が話題となり、公区長より疎開、貯蓄等について話があった。同月中には国民登録世帯票の配布、収集、道路家庭菜園調査、牛乳配給現状報告(母乳不足、皆無別)の提出をし、転入、転出者の手続きもしている。
 五月の役員会では、ラジオ体操、疎開衣料品、防空資材等について協議され、それらが班常会におろされる。八日の大詔奉戴日にはラジオ体操、紙芝居等が行われ、子供約一〇〇人と公区員たちが集まった。班長は、収入調、乳幼児調査票配布、収集、衣料品の配給券配布、水道料金、自転車税の徴収と多忙である。臨時常会では緊急軍事土木工事勤労員の要請があり、班内から出さねばならなくなった。
 六月の班常会では、配給、勤労員、防空資材、夜警番、毛皮・布団の供出、腸チフス・天然痘の注射の件が伝達された。この月の回覧は、食糧、衣類等物資の配給のほか、腸チフス、種痘の日割り、疎開荷物、緊急軍事土木工事、国民義勇隊等に関するもので六回である。このうち国民義勇隊は、後述するように六月二十九日桑園国民学校で結成式を挙行した。
 七月から八月にかけての役員会や班常会では、通常の配給、援農等とともに、疎開、避難場所の決定、空襲時の連絡方法、持参すべき物品、灯火管制等が重要な協議題となっている。特に、八月四日の役員会では、人員疎開として国民学校生徒、老人等の縁故疎開や、アカザ、カタクリ、茶殻にいたるまでの粉食資確保運動について協議されている。
〔入隊〕十九年十一月には、同公区内から一人の戦死者(ビルマ)が出た。戦況がますます悪化するなかで、同公区内からの入隊者は、二十年に入って一月から三月までに九人を数え、海軍士官学校へも一人が入学した。さらに四月七人、五月二人、六月四人、七月三人と、二十年に入ってから二五人も入隊した。その間に一人の戦死者が出た。そのつど回覧で知らせ、かつ壮行会を開いて駅まで見送りに行くといったのが公区班長、役員の重要な任務でもあった。
〔配給〕物資の慢性的欠乏状態は二十年に入ってますます深刻な事態を迎えた。米穀の配給はすでに十六年に切符制から通帳制へと変わり、男女、年齢、労働の種別によって定められていた。二十年三月、第一〇班でも非常事態発生時の主要食糧確保について各戸ごとに調査したところ、三日分が六戸、かんパン保有者が二戸といった状況であった。そして五月には米穀の基準量が引き下げられたが、それも維持できず七月から一割減の引下げが行われた。その配給も、米だけではなく麦や豆などがまじり、米も二分搗きという玄米に近いものになってきた。このため、一般家庭からは純粋な米飯は次第に姿を消し、雑穀をまぜたり、いも、かぼちゃ類から大根の葉までまぜた飯あるいは粥、さらに主食をいも類ですませることも珍しくなくなっていた。『日誌』にみる配給食糧も、「穀粉」、鰊、スケソウ、チカ、カレイ、カスベ、ホッケ、鱒、トロロコンブ、カマボコ、チクワといった類が多くなっていることがわかる。納豆・豆腐も三人で一包、一丁である。調味料も味噌、醤油、ソース、酢といったのが月一回の割合で、それも限定量である。酒、煙草にいたっては成人男子に限られていた。特に煙草の場合、成人男子一人何本の割合で配給になっている。酒は冠婚葬祭の場合にしばしば特配になることがあった。もちろん菓子など甘味類はほとんど姿を消し、『日誌』の五月十五日の「澱粉、御飯と小豆の混合食のシルコ」はご馳走であった。食糧不足を「ワラビ狩り」をはじめ、野草で補っている。
 衣類もまた不足であった。十七年から衣類の本格的統制(点数制)が行われ、都市では一人年間一〇〇点の範囲内でしか衣類を購入できなくなった。繊維製品の欠乏ははなはだしく、十八年に一部衣料品の点数を改正して配給料を下げ、十九年にいたっては点数自体が三〇歳以上四〇点、三〇歳以下五〇点と大幅に切り下げられた。その上品物は粗悪なものが多くなった。『日誌』中にもシャツ、ズボン下、ネル、タオルなどが稀にあるが、そういったことも考慮に入れてみる必要がある。
 さらに都市の生活に欠かせない石炭は十五年二月から配給制となり、品質も低下したためルンペンストーブがこの時期広く使用されるようになった。一〇班内でも絶対量が不足する中、一トン分を六人で分配しているのがみうけられる。
〔貯蓄報国〕隣組を通して国民組合貯金、国債の消化、日赤入社の勧誘等々が『日誌』からもみうけられる。貯蓄は、三月二十二日「比島戦決勝突撃貯蓄運動」のような形で上からおろされた。しかも三月二十九日の項をみると、「国民組合貯金の調査表」とあり、誰がいくらかすべてガラス張りの状態である。国債の消化もまた同様であった。このほか金属回収は、二十年では古紙回収をはじめ、「市街空地家庭物置等の廃棄物資」にまでおよび、金属屑、硝子屑、繊維屑、瀬戸物屑、ゴム屑にまでおよんだ。すでに「出す」ものはすべて出しきった状況であることがわかる。
〔警防〕防空壕掘りは、十九年三月の内務省次官通牒で発せられた。班長宅でも二十年五月六日から防空壕掘りを開始した。だが、資材、大工、人夫が払底していてなかなかはかどらず、五月二十二日に何とか完成にいたった。その間に「警戒警報発令」が一回あり、班長のやきもきした心境をも記載している。五月二十九日に、午後十時以後の灯火管制状況を調査したところ、六軒のから灯が洩れているのが報告された。六月に警戒警報が三度、空襲警報が二度あった。七月にはさらに増してきて、灯火管制の徹底、防空壕の完備、防空服装の訓練、警報発令時の待避の方法までが伝達された。また、各公区とも防空訓練として「注水競技」(バケツリレー)が行われ、団体、個人競技として「成績」が評価された(道新 昭19・8・12)。
〔動員等〕まず班外の学生寮に住む学生たちに札幌郡江別町(現江別市)の飛行機工場への勤労動員があった。班員にも五月から七月にかけて軍事緊急土木工事(飛行場建設)のための動員があり、札幌札幌村丘珠(現札幌市東区の一部)まで男女一二人が交替で行き、援農にはしばしば女性たちが動員された。
 また、種痘接種やチフスの予防注射等衛生面の教化も隣保班の大きな役割であった。
 以上のような戦時体制下の末端組織・隣組について次の三つのことが指摘されよう。第一に、各種調査がすべて隣組を経由され、情報が最も集中し、個人情報を知悉する機関となる。第二に、衣食住にかかわる物資の配給がここを経由するため、公区長・班長の権限はいやおうなく強化される。第三に、都市生活者の場合、近隣から比較的孤立した生活を営んでいる者に対しても、配給、動員、訓練等を通して諸行事への参加を強制する。
 かくして、地域の人びとは戦時生活を営まされ、戦時体制へと接続させられていった。