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尋常科授業料の全廃

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 市町村立尋常小学校の授業料は、明治三十三年に制定された「第三次小学校令」の規定では不徴収を原則としていた。しかし、札幌市(区)では財政上の理由から不徴収には踏み切らず、数度の改定を経て、大正九年度には尋常科全学年一カ月二〇銭から三〇銭へと大幅な値上げを断行した。この授業料は同令に規定された上限額(市の場合は二〇銭)を超えていたため、北海道庁長官から制限外徴収の認可を受けていた。この授業料は「全道一の高額」で、毎年の予算市会では必ず問題となっていた(北タイ 昭2・1・19)。
 大正十五年の第二回市会で池田新三郎議員が授業料の全廃の意向を質したのに対して、高岡市長は教育施設の整備の財源となっている授業料の全廃や減額は考えていないことを表明した。同じ市会で、池田議員は尋常科授業料を三〇銭から二〇銭へ減額する修正案を提出したが、賛成少数で否決となった。昭和二年になって、高岡市長は予算の提案説明に際し、尋常科授業料だけでも五万円の歳入となっているので全廃する意志はないが、二年度から若干の減額措置を講じることを明言した(札幌市会小史 第一期・第二期)。それは児童一人に付き一カ月三〇銭とする点は変わらなかったが、二人以上の場合は一人目を三〇銭とし、二人目からはその半額の一五銭とする内容であった。また、橋本市長になった三年度からは児童一人に付き一カ月三〇銭を二〇銭に減額するとともに、二人以上の場合は二人目からはその半額の一〇銭とした。そして、五年度には尋常科授業料が全廃となった。この当時、尋常科授業料(手数料及使用料)は三万九〇〇〇円の歳入となっていたが、その減収分は経済不況にもかかわらず、「戸口の増加による自然増収」によって補塡され、新税の創設や税率の引き上げは全く必要がなかった(北タイ 昭5・2・13)。
 こうした札幌市の尋常科授業料の全廃に向けて、大きな役割を果たしたのは、大正十二年七月に発足した札幌市小学校聯合保護者会の粘り強い活動であった。同聯合保護者会は十五年十月に開催された、その第七回例会で北九条尋常高等小学校保護者会が提出した議案「尋常小学校の授業料を全廃せられんことを市当局に建議するの件」を可決し(札幌教育 第四三号)、市長に陳情した。そして、昭和四年十一月の第一三回例会でも同校が提出した授業料全廃を建議する議案を「此の時期に於て全廃する様一層市当局に陳情すること」としたうえで、満場一致で可決し、直ちに市長、教育課長、庶務課長に陳情した(札幌教育 第六二号)。各小学校保護者会の代表委員は役員と協力して、通学区域内の市会議員を訪問し、陳情の趣旨の理解とそれへの支援を求める活動も展開した(同前)。
 また、同聯合保護者会の陳情活動とともに、看過できないのは労働者の運動であった。昭和二年五月に札幌合同労働組合が主催したメーデーでは、そのスローガンとして「男女満十八歳選挙権獲得」「治安維持法撤廃」などと並んで、「授業料撤廃」が掲げられていた(北海道庁 本道ニ於ケル左翼労働運動沿革史)。当時の無産政党はその政策中に「授業料撤廃」を掲げるのが一般的で、労働農民党は「義務教育及職業教育期間に於ける一切の費用国庫支弁」を主張した(細迫兼光 労働農民党の綱領と政策)。同党小樽支部では昭和三年二月に市民大会を開催して、「授業料撤廃」を決議したが(労働農民新聞 第四〇号)、札幌支部でも同様の決議がなされたと思われる。