札幌の夜間教育機関としては、明治二十七年に新渡戸稲造が設立した私立遠友夜学校の存在はよく知られているが、大正十年代から新設された夜学校は、それまでとは異なって行政自身が設立に深く関与するとともに、卒業者に対して一定の資格(専門学校入学検定試験免除)と特典(徴兵延期)を付与するなど、その性格が大きく変化した。また、それは小学校卒業者が進学する中等学校の補完機能を有し、激化する「試験地獄」の緩和策として重要な役割を果たしていた。
札幌中等夜学校は大正十二年に、「昼間就学ノ便ヲ欠ク男子ニ対シ高等普通教育ヲ授ケ併セテ国民道徳ヲ養成スル」ことを目的として、札幌第二中学校内に開校した(菅原亮芳 昭和戦前期「夜間中学」史試論 1)。同校の設立は当時の北海道庁内務部長・服部教一が、「全道有数の中等学校に夜学校附設を勧誘した」(北タイ 昭7・5・7)ことが直接的な契機とされている。服部の「夜学校附設論」は、大正十一年二月に開催された全道中等学校長会議での「家庭ノ事情ニ依リ中等学校ニ入学シ得サル者ニ対シ中等教育ヲ受ケシムル方法如何」という諮問に対して、「地方ノ必要ニヨリテ夜間中等学校ヲ設クルコト」、また、その「設備ハ既設学校ノ教具ヲ使用スル」という答申内容を踏まえた言説であったといえよう(北海道庁内務部教育兵事課 教育関係会議事項集)。
この服部の「勧誘」に応える形で、十二年五月に開校した中等夜学校は男子部と女子部を合わせて一二校に上った。男子部は札幌第二中学校をはじめとして、室蘭、釧路、小樽、函館、旭川、名寄の各中学校と根室商業学校に、また、女子部は札幌、室蘭、小樽、函館の各高等女学校にそれぞれ附設された。
札幌中等夜学校の修業年限は四カ年で、入学資格は尋常科卒業者、またはそれと同等の学力を有するものとされていた。同校の経営は主として授業料(一人月二円)に依存していたが、北海道庁からその補助として、毎年二〇〇円が支給されていた(札幌夜間中学 学校一覧 昭11)。大正十四年時点での同校生徒の職業別内訳を見ると、最多が「給仕」で一七人を占め、これに「商店会社事務員」が一一人で続いていた(北タイ 大14・2・15)。これらの職種に加えて、「札逓書記補」「小学教員」「札鉄機関手」「豆腐商」「弁護士書生」なども通学し、その平均年齢は一九歳九カ月であった(同前)。ちなみに、最高年齢は三六歳である(同前)。
昭和二年の第一回卒業生は九五人の入学者中、二五人に過ぎなかったが(前掲 学校一覧)、このうちの一三人は文部省が実施する専門学校入学検定試験に全科目合格して、「北大予科に入学し、現に優秀な成績を挙げつゝあるもの二名、小樽高商入学一名、私大入学二名、本正教員合格二名あり。寸暇を惜しみ勉学に努力する人々の範を示してゐる」と報じられた(樽新 昭4・3・28)。
同校は昭和七年十二月に、札幌市在住の北山新太郎から寄贈された時価三万円相当の山林を基本財産として(前掲 学校一覧)、文部省の専門学校入学検定試験免除の指定を受けるために財団法人化に着手し、そして、八年五月に「財団法人札幌夜間中学」の設立を申請した(同前)。翌九年三月には文部大臣から設立が認可され、校名も札幌夜間中学と改称した。この措置によって、それまで「各種学校」に過ぎなかった同校の卒業生は「専門学校入学ニ関シ中学校卒業者ト同等以上ノ学力ヲ有スル者ト指定」されたのである(同前)。文部大臣の指定校となった九年度の入学志願者は、前年度と比較して五〇パーセント近く増加したが、当時の新聞はこの現象を「安全地帯吹飛ぶ」という見出しを掲げて報じた(北タイ 昭9・4・8)。
そして、十一年四月には陸軍省と文部省から「兵役施行令第百条第三号ノ規定ニヨリ認定学校」の指定を受け、徴兵延期の特典を付与された(前掲 学校一覧)。
同校への入学志願者は十年度は二三九人、十一年度は二五六人というように増加の一途をたどり(同前)、十五年度には五一一人に達した(北タイ 昭15・4・3夕)。
札幌市では大正十四年、「実業補習学校規程」に基づく夜間の女子教育機関として、市立実業女学校を開設した。校舎は市立高等女学校のそれを借用した。同校は「女子ニ対シ商業及家政ニ関スル知識技能ヲ授ケ併セテ貞淑ナル徳性ヲ涵養スル」ことを目的として設立された(札幌市公報 第五七号)。同校の修学年限は二カ年で、その入学資格は「修業年限二箇年以上ノ高等小学校卒業者又ハ之レト同等以上ノ学力ヲ有スル者」と規定されていた。同校の学科目は修身、国語、数学、英語、商業、裁縫、家事、法制経済の八科目で、毎週授業時数は一八時間であった。学科目のなかでは、同校の性格が示すように商業と裁縫の二科目で、合計八時間が配当されていた。ちなみに、授業料は一人月一円であった。
昭和九年の時点での同校の状況を見ると、高等小学校卒業者が入学する二年制の本科と、その修了者を対象とする一年制の高等科に加えて、尋常小学校卒業者が入学できる専修科の三科を備えていた(北タイ 昭9・3・20)。専修科には「女子に必要な」科目として、和服科、生花科、ミシン科などを置いた(同前)。専修科の科目は高等科の生徒も自由に選択できた。まさに良妻賢母主義の教育を象徴的に映し出している。同校には当時、五番舘などの店員、小学校の給仕、第一銀行の電話交換手らが通学していた(同前)。同校は十六年に市立高等家政女学校に組織変更した。
昭和戦前期の札幌には中等学校程度の夜学校として、これらの二校に加えて、札幌遠友夜学校中等部(明27開校)、北海夜学校(大1開校)、中等夜学有鄰館(大10開校)、市立商工学校(大11開校)、愛国婦人会隣保館女子夜学部(昭10開校)、昭和中学(昭14開校)などが存在し、向学心に燃える青少年の学習の場となっていた。