創成小学校附属幼稚園は札幌で最初の公立幼稚園として、明治二十一年八月に開園した。その設立の方法は「学事奨励の為官民の協力に依」(道毎日 明21・4・8)ったと報じられている。
開園へ向けての具体的な動きを紹介すると、同年三月、札幌区町総代人は北海道庁に対して創設費四〇〇円の補助金の申請と維持費は「人民の寄附金」によって支弁することを盛り込んだ「幼稚園設立の義」を提出した(道毎日 明21・4・11)。同年四月七日には設立許可を受け、さっそく園児と寄附金の募集に着手した。入園資格は「幼稚園児女募集広告」によれば、満三歳以上、六歳以下の幼児とされ、定員は五〇人であった(道毎日 明21・5・8)。
同幼稚園の維持費に充当する寄附金も吉田元利や三吉笑吾らから「寄附願」が提出され、札幌区に受理された(道毎日 明21・5・11、5・19)。寄附金の醵出者には優先入園と保育料の無料ないしは減額の特典があった。保育料(一カ月分)は寄附金額の多寡によって異なり、二五円以上は無料、二〇円以上は二〇銭、一五円以上は三〇銭、一〇円以上は四〇銭、七円以上は四五銭、五円以上は五〇銭、寄附を行わなかった者は六〇銭とそれぞれ定められていた(道毎日 明21・5・24)。
同幼稚園の保姆として着任したのは、東京高等師範学校女子部高等小学師範科を卒業した西川カメである。西川は福山の松城学校を卒業し、函館師範学校に入学したが、在学中の成績を評価され、十八年九月に東京師範学校(東京高等師範学校の前身)に転学した。西川は「音楽や遊戯等にもすぐれ、絵もまた巧みであって幼童の教育につとめてその成績を挙げた」(札幌市史 文化社会篇)と言われている。
二十五年五月、札幌の市街地で大火があり、創成小学校も類焼した。これを契機に札幌区では同幼稚園を創成小学校から分離し、札幌女子小学校(札幌女子尋常高等小学校の前身)の附属幼稚園とした。この点に関して、同校の『本校沿革誌』には次のように記されている。「六月十三日創成小学校附属幼稚園ヲ分離シ本校ニ附属セシムル旨区長ヨリ達示セラル」。こうした措置の正確な理由は不明であるが、おそらく女子教育と幼稚園が不可分の関係にあるという判断に基づくものであったと思われる。これに伴って、西川も創成小学校から同校の訓導へと異動し、「保姆主任」に任じられた。
同幼稚園の保育料は「札幌区立小学校生徒授業料及附属幼稚園幼児保養料徴収細則」(明25・12)の規定によって、月額六〇銭と定められた(札幌支庁第一課編 総代人必携)。この金額は当時の小学校尋常科の授業料の三倍に相当し、高等科のそれと同額であった。したがって、入園者は一定の資産を有する者の子女に限られていた。
前掲『本校沿革誌』によれば、二十九年三月、同幼稚園は小学校の教室増設工事に伴い、札幌商業倶楽部内に一時移転することとなった。そして、同年九月には同校に隣接する官舎や土地の特別払下げを受け、そこに「遊嬉室」を新設したり、あるいは官舎を改築し「開誘室」や「保姆室」に転用するなどして再度移転した。
しかし、札幌区役所では三十一年三月中旬、同幼稚園を三十年度限りで閉園することを決定した。この決定に先だつ同年二月、区総代人、学務委員が同校校長小林到を交え、三十一年度の予算に関する協議を行ったが、そのなかで足立民治(学務委員)は同幼稚園の閉園理由を次のように述べた。「区費増加ニ付委員〔学務委員〕調査ノ結果負担ニ堪ヘスト認メタルヲ以テ本年度〔明治三十年度〕限リ幼稚園ヲ廃止シ尋常科女生徒ヲ創成尋常小学校ヨリ女子小学校ニ纏メント欲ス」。これに対して、小林も「区費負担ニ堪ヘスト決シ学齢児童ヲ収容スルノ設備ニ苦ミナカラ幼稚園ヲ維持セントスルハ本末ヲ顚倒スルモノナレハ義務教育完整ノ為幼稚園ヲ廃スルハ異義ナシ」と述べ、足立の意見に同意した(本校沿革誌)。このように足立と小林の意見が一致をみた時点で閉園は事実上、決定されたといってもよい。
この協議のなかで、両者がともに言及している幼稚園の経費が「区費負担ニ堪へ」られないとする根拠について検討しておこう。「札幌区費収支一覧表」(経常費)によれば、三十年度の幼稚園費(決算額)は収入額が二八二円に対して、支出額が四四一円七〇銭で、一六〇円近い赤字は計上していたが、支出額が教育費全体に占める割合は三パーセント程度に過ぎない。幼稚園費だけを見ると、決して「区費負担ニ堪へ」られない金額ではなかったと思われる。
むしろ問題の所在は教育費の収入と支出が著しくアンバランスであった点に求めることができよう。事実、三十年度では収入額が七四五七円(小学校授業料と幼稚園保育料の合計)に対して、支出額が一万四八三三円一銭六厘であったように、大幅な赤字を計上していたのである。こうした教育費の大幅な赤字は、札幌区の財政に甚大な影響を与えることは言うまでもない。この閉園措置は「区費負担ニ堪へ」られないとする札幌区の財政上の理由からであった。しかし、その背景には幼児教育の振興よりも、創成尋常小学校の女生徒を札幌女子尋常高等小学校に統合し、それによって当時の男女別学の方針に沿った「義務教育」の「完整」を企図する教育関係者の共通認識が存在していた。ちなみに、三十年の五歳児の幼稚園就園率(全国)は〇・九パーセントに過ぎなかった(幼稚園教育百年史)。