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民衆文化論の登場

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 大震災後から昭和初期に市民が担う文化団体が叢生したことと同時に、文化は誰が担うべきか、あるいは誰のためのものかを問う、民衆文化論が登場する。
 たとえば、大正十五年六月に菅野省三・石井春省・飯田実東末吉田上義也らが「民衆的な大音楽団」を創立しようともくろんだ、札幌市民楽団をめぐって、『北海タイムス』は、以下のように位置づける。「音楽が有産階級の享楽機関でなくて一般民衆のものであるといふことはいふまでもないことである、大震災のあとに先復興したものは音楽である、生活はだんだん逼迫して来る其緩和機関としても亦音楽は生活そのものでなければならない」(北タイ 大15・6・7)。
 また清楚な日本画を書いた名随筆家鏑木清方は、昭和四年九月八日付の『北海タイムス』に「美術の民衆化」と題し、美術には美術至上主義と、「低く汎(ひろ)く曠野に水の拡がるやうにゆく途」の二つがあり、後者の民衆芸術は、「願はくば日常生活に美術の光がさし込んで、暗い生活をも明るくし息づまる生活に換気ともなり柔(やわら)ぎ寛ぎを与へる親しい友となり得たい」と論じる。まさに震災前にはなかった、民衆をめぐる文化論の登場である。
 プロレタリア芸術文化運動の重要なジャンルとなる漫画においても、在田稠は昭和七年に「民衆芸術としての漫画」で、「何等束縛のない自由がある、裸の芸術、赤裸々な芸術、それが民衆芸術」とし、「漫画は民衆を母胎として生れ、民衆に育った」とする(北タイ 昭7・8・3)。
 全国的に象徴的なでき事が、レコード歌謡曲時代の幕開けを告げる同じ昭和四年の「東京行進曲」をめぐる「流行歌論争」である(倉田喜弘 日本レコード文化史)。時代の主役としての民衆をめぐる文化論である。菊池寛原作を溝口健二が日活から映画化した「東京行進曲」は、ブルジョア娘入江たか子とプロレタリア娘夏川静子を対比させた思想映画で、道内各地で上映された(北海道映画興業名鑑)。同名のレコードが作曲中山晋平、作詞西条八十によって、ビクターから発売され爆発的なヒットとなる。
 ここで音楽評論家伊庭孝と、大正期の童謡「カナリア」で知られ、アルチュール・ランボーの翻訳で知られたフランス文学者西条八十(早大教授)との間で、昭和四年八月四日に『読売新聞』紙上での論争がはじまる。『読売新聞』は、大正十三年三月に正力松太郎が社長に就任して以来、家庭面・宗教欄・ラジオ版などを創設し、文芸欄やスポーツ記事を充実し、「大衆的紙面づくり」を押し進め、昭和十三年には『東京日日新聞』『東京朝日新聞』を抜いて九五万部をこえる発行部数になる(昭和文化)。こうした大衆的紙面づくりは他紙にも影響を与えるが、昭和七年頃から『北海タイムス』も、ラジオ・家庭・学芸・映画などの各欄が独立している。
 伊庭は「軟弱・悪趣味の現代民謡」という公開状を「文芸日曜附録」にのせ、西条に対し「もっと民衆の趣味を向上せしむ可き作品を創作する腕も経歴もありながら、好んで悪趣味をねらふ」と非難し、「悪趣味の歌」が陸続とあらわれ「東京市民の趣味の堕落」をうながすと論じる。
 これに対し西条八十は、「『東京行進曲』は不合理に膨張した経済生活の下に乱舞してゐる浮華な現代の首都人の生活のジャズ的諷刺詩」と述べ、大衆の嗜好にあった歌謡曲をつくったまでで、責めるなら大衆を責めよと反論する。
 この論争は八月二十日まで、川路柳虹・堀内敬三・兼常清佐・中野重治をもまきこんで展開する。印象に残るのは、「東京行進曲は行進しないマーチだ。行進するマーチはもっと下から出て来る。もっと愉快に、もっと朗かに、もっと底力で」と、民衆のなかから真の文化は涌き上がることを説く、プロレタリア作家中野重治の言葉である。