昭和四年の一九三〇年協会北海道展のあと、東京では五年に独立美術協会が成立し、八年に北海道独立作家協会が、小山昇、菊地精二、国松のぼる、水野(居串)佳一、岡部文之助、渋谷政雄、武智肇、植木茂、渡辺大次郎、浜谷次郎の一〇人を会員に、三岸の影響のもと出発する。
昭和八年七月一日から七日まで札幌三越でおこなわれた、北海道独立美術作家協会の第一回展の「作品目録」を兼ねて発行された『独立美術クロニック』創刊号に、会員各自の随筆がのる。三岸は「感情と表現」の抜粋を『独立美術』から転載する。なによりも三岸の思想は、「創作の本質とは、画家の主観的感情の表現に外ならない」とした上で、「形象上の感情」「色彩上の感情」を説くものだった。三岸好太郎は、翌九年第二回北海道独立美術作家協会に超現実主義に接近する「ビロードと蝶」を出品した直後の、七月一日に胃潰瘍が原因で、旅先の名古屋で急逝する(工藤欣弥・寺嶋弘道『三岸好太郎』)。その北海道独立美術作家協会の『独立美術クロニック』二号(文資蔵)に、国松のぼるは「私感〈新しき工作への行程〉」を寄せ、「感性を消化しつくした観念の培養こそ真の絵画を意義づける動力」と論じる。
まさに一九三〇年協会とそれに続く独立美術協会以降の時期は、フォービスムに典型であるように、「主観を強調し、作家各人の個性」を重んじる、今日の絵画に至る価値観が定着した時代といえるだろう(鈴木正實 〈近代日本美術における一九三〇年〉と三人の画家)。
北海道独立作家協会は、その後、十年五月一日から三日まで東京に進出し銀座アモレ画廊で展覧会をおこない、同年八月二十日からは札幌で三回目、最後の展覧会を三越でおこなった。