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裸体時代

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 モダニズムの時代の美術をめぐる問題として裸体画をとり上げたい。
 大正十二年七月二十二日から二十四日の、「幼ない折の或る時期を、和やかに育むで呉れたこの土地、札幌」で行われた、三岸好太郎俣野第四郎、小林喜一郎の油絵展覧会(民衆会館)において、俣野の二点の「トルソ」が展覧不許可となる(出品目録、俣野第四郎 人と芸術)。大正十四年の道展では道庁と札幌警察署による検閲があり、裸体画二点の陳列が禁止された。
 第一回のフランス美術展で、小中学生の団体鑑賞に適さぬ絵があるから別室で展示すべきと、札幌署の刑事から責任者の小熊にクレームがつくが、第二回でも東京・大阪で公開されたドンケンの裸婦は、「約束済み」として札幌では公開されなかった(北タイ 昭3・6・8、昭5・5・22)。
 昭和七年の道展でも斉藤尚の裸婦二点が局部の「黒の強調」が風紀を乱すとして、灰色で描き直させられる。本間紹夫は、「芸術的良心の上から非常に苦痛」とのコメントを寄せる(北タイ 昭7・9・23)。
 明治二十八年、京都における第四回内国勧業博覧会での黒田清輝の「朝妝(ちょうしょう)」をめぐる裸体画論争に遅れること三〇年余りである。裸体画を成り立たせているポイントは、第一に美としての規範、第二に人体表現、第三に〈ハダカ〉であることだ。日本の裸体画に見出されたものは、第二第三の、生身の〈カラダ〉と〈ハダカ〉である点である。特に昭和初期の札幌の新聞の報道のされ方を見ると、展覧会といえば図版は必ず裸婦が登場し、エロ・グロ・ナンセンスの時代相も反映し、第三の見地のみの関心の高さが目立つ。さらに裸体が「文明」の対極に位置するものとして忌避されてきた、明治期以来の政策の問題も介在するだろう(佐藤道信・北澤憲昭 人の「かたち」人の「からだ」)。
 しかも第一回フランス美術展で警察からのつるし上げにあった小熊は、昭和四年一月一日に、「裸体時代」という評論で、「女体の裸姿、そこに美の完璧を見出そうとする画家は、若い娘を裸にして展覧会の人気を一人で背負ふ事に努力して居る」(北タイ)と述べ、世間受を狙う文章で、必ずしも裸婦の芸術性を矜持する論調ではない。