日本が連合国の占領下におかれている期間中に、いわゆる福祉六法のうちの三法が成立した。生活保護法、身体障害者福祉法、児童福祉法である。その一つ生活保護法は、敗戦に伴う日本経済の逼塞(ひっそく)状況下での戦後処理であり、対症療法的当面の措置としての緊急生活援護要綱にはじまり、二十一年九月九日に成立した(十月一日施行。旧母子保護法など廃止)。GHQの非軍事化路線に対して、日本政府の戦後処理の根底には軍人対策があり、日本政府の救済対象は、当然のこととして第一に軍人軍属であり、第二に戦争犠牲者であった。GHQ及び日本政府の対応で明確に相違点が現れたのが、日本の傷痍軍人対策(しょういぐんじんたいさく)の代替措置としての「傷痍者保護」対策であった。GHQはこれを無差別平等の原則に違反するとし、日本側の傷痍者保護対策に対しては、貧困以外の特殊要因に対応できる対策の確立を強調、ここにすべての障害者のための対策の観点からの傷痍者保護対策にふみきった。生活保護法が非軍事化・民主化路線にもとづく「無差別平等の原則」の確立から生まれたのに対して、身体障害者福祉法は、GHQと日本政府との拮抗関係から二十四年十二月二十六日生まれた(二十五年四月一日施行)。
これら二法に対して、二十二年十二月十二日成立(二十三年四月一日全面施行)の児童福祉法は趣を異にしており、厚生省担当者と歩調を合わせた民間の母子問題懇話会のメンバーから児童保護に関する陳情を受け、民政局の意向がかなり強く反映されたとされる。民政局は日本に民主主義を根づかせるためには、次代をになう児童にその任務を託そうといった考えのもとに児童保護を積極的に推進しようとしたのである。この法律により、児童委員・児童相談所・乳児院・保育所などの設置と基準を定めるほか、妊産婦・乳幼児に対する母子保健事業を開始した。民政局は民主化・非軍事化という占領基本政策の視点から日本の福祉政策に大きくかかわったのである(日本社会事業大学 戦後日本の社会事業ほか)。