アイケルバーガー中将を司令官とする第八軍は横浜に司令部をおき、東日本の占領と地方の軍政を担当した。そのもとにある第九軍団による北海道進駐は、占領計画「ベーカー二三」と呼ばれ、麾下(きか)の第七七師団の各連隊が道内各地に配置された。グアム・レイテ・沖縄などの激戦を経てきた第七七師団は、日本占領の戦術部隊になると同時に、地方自治体との連絡や占領軍の求める労働力・施設の調達などを日本側に指示するために、臨時の軍政態勢を敷いた。
二十一年一月までに、都道府県レベルに専門に訓練された「軍政中隊」が配置され、戦術部隊の軍政態勢と交代した。その規模は将校一二人と下士官兵六〇人で編制される。この上位に広域の行政地域に配置される「軍政グループ」があり、将校一三人・準将校一人・下士官兵二六人からなっていた。いずれにも技術・司法・医療・公安・資源産業・供給・通訳・労働・海難救助・輸送の部門があった(以上 横浜市史Ⅱ第二巻下第四編第一章占領軍と横浜)。横浜の第八軍軍政局の下、札幌には、二十一年二月二十日の段階で、第九軍団に属する「軍政グループ」と、第七七師団に属する「第七四軍政中隊」がおかれていた。
二十一年七月一日、軍政体制が再編成された。すでに仙台に司令部を移していた第九軍団の軍政部のもとに、東北・関東とともに、札幌に北海道地方軍政司令部が設置されたのである。函館には軍政チームがおかれた。
その後の大きな変更は二十四年七月一日、地方軍政部が地方民事部に、軍政チームが民事チームになったことである(第八軍軍政局は民事局となる)。GHQ・SCAPによれば、「日本占領の諸事情も変化したこの際、これと歩調をあわせ、なるべく実際の仕事に合致した名称を選ぶことが適当であるとの意味で民事局・民事部の名称が決定された」(前掲 横浜市史Ⅱ)という。この後もさらに管理体制の文官化への転換が強まり、二十五年一月からは民事部長・次長のみ軍人で、各課長はすべて軍属となった。二十五年八月現在の機構は、経済課(労働係・商業係・天然資源係)、法政課、公衆福祉課、公衆衛生課、民間教育課(社会教育係・婦人教育係)、民間報道課となっている('51道年鑑)。
これに先立ち、二十三年二月(占領軍調達史 占領の基調)、日本側の外務省所管の終戦連絡事務局は総理庁所管の連絡調整事務局へ衣替えし、札幌には北海道地方事務局がおかれた。
占領行政の転換と連動して、昭和二十五年三月、グランドホテル内に総司令部外交部札幌支部が開設された。在道米人の戸籍業務・旅券業務のほか、通関証明の手続きなどを担当した。これが五月に領事館となる。初代支部長には二等書記官兼領事のW・L・マジストレッチが就任した。
二十六年六月三十日、GHQ・SCAPは各地方民事部の地方行政監督の業務を終了させ、地方民事部を廃止した。これに関連して、これまで地方民事部に属していた地方の教育、情報、青少年指導の業務は民間情報教育局(CIE)に継承された。その北海道地方事務所には、教育・情報・青少年問題の担当官が配置された('52道年鑑)。
地方民事部に対応していた日本側の連絡地方事務局も、占領行政の転換にともなって縮小された。そして、講和条約の発効とともに、二十七年四月二十八日、札幌の地方事務局も廃止された。
なお、軍政部とその後の民事部は駅前通りの帝国生命ビルにおかれた。初代の部長はヒルデブランド大佐、ついでヘズレー中佐、デンソン大佐、ウィリアムス中佐、タイス大佐、マンスキー中佐(部長代理)とつづき、二十四年四月に就任したスワイツァー大佐は初代の民事部長となった。二十五年七月、ドリンカート大佐と交代する。