昭和二十二年(一九四七)四月、新憲法と地方自治法が施行される直前、衆院・参院選挙と地方統一選挙が同時に行われた。
北海道知事選においては、社会党、共産党、各労働団体の間で民主戦線の統一が成立した。昨年メーデー以来の労働戦線統一は二月十六日に民主戦線結成準備会を生み、三月十九日に道庁職組執行委員長の田中敏文を候補者として正式決定した(道新 昭22・3・20、4・1)。四月七日に六人の候補者で行われた知事選では、田中が第一位となったが、法定得票数に満たず、第二位有馬英二との決選投票が行われた。四月十六日の決選投票で、田中五五万八〇〇〇票、有馬四七万四〇〇〇票となり民主戦線を基盤とした田中が初代公選北海道知事として選出された。田中は全国四人の社会党知事の一人となった。札幌市での得票数を見ると、有馬が三万八七〇五票で三万五五二七票の田中を上回っていたが、農村部の大量得票によって田中は八万票以上の差をつけた。
知事選と同日の四月七日に札幌市長選も行われた。六人が立候補し、結果は無所属の高田富與が二万八八八二票、得票率四〇・一パーセントで当選した。社会党の水島宣二五・〇パーセント、自由党宇野秀治郎二一・一パーセントなど、他候補を大きく引き離しての大勝であった。同日全国で一八九の市長選結果が出たが、その党派別内訳は、民主党二三、自由党二一、社会党八、無所属一二八などであった。無所属の大部分は保守系と見られ、市長は圧倒的に保守系が多数を占めた(道新 昭22・4・8)。高田も保守系無所属に数えられた。
四月二十日に初の参議院選挙が実施された。北海道地方区では定数八人(うち四人は三年議員)に対して、一九人が立候補した。結果は、自由党二、社会党二、無所属四であった。次いで、四月二十五日に衆議院総選挙が行われた。この選挙から中選挙区単記制が採用された。選挙区は全道五区に分割され、札幌市は小樽市・石狩支庁・後志支庁とともに第一区に含まれた。第一区では定数五人に対し一八人が立候補した。結果は、自由二、社会二、民主一であった。全道では、社会党八、自由党七、民主党三、日本農民党三、国民協同党一であった。第一区でも全道でも社会党と自由党が強く、総選挙直前に公職追放で打撃を受けた民主党(進歩党の後身)は振るわなかった。