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公区制の廃止・市民会の創出と挫折

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 昭和二十二年(一九四七)一月二十二日、内務省は昭和十五年に発せられた部落会町内会等整備要領を廃止する旨の訓令を発し、翌日にはその期日を四月一日とした(自治史)。これを受けて札幌市では、公区・連合公区に代わる新たな市民組織の創出を構想し始める。同年二月六日、札幌市会議員協議会において「公区制度廃止にともなう民主的な組織」を作るために公区制度審議委員会を設置することとなり、委員として「連合公区、公区の長および役員から十名、市会議員から五名、市内学識経験者から二名、市吏員から三名計二十名を選ぶことになつた」という(道新 昭22・2・7)。
 同年三月十三日に、公区制度審議委員会は最終案を決定した。それが市民会制度である。これは、「市民会を本体として細胞に隣組を置き市民会員の一般の教養、体位向上、保健衛生および物資の配給を主体事業とし、市政関係では市民生活に直接関係のある事業のみを行う」という構想である(道新 昭22・3・14)。設置の範囲としては、「従来の隣保班の区域に隣組を公区の区域程度に市民会」を置くとされていた(昭22 事務引継書)。市側は「市民会は皆さんが自主的につくる会で市としては干与出来ない」(原田市長代理談、道新 昭22・3・29)と説明し、公区と異なりあくまで市民の自主的な組織であるとした。
 これ以降、運営方法などについても協議・決定されていったようである。新聞報道によれば、同年三月十五日に「最後の公区制度審議会(ママ)」が開かれ、「市民会規約、連合市民会規約等」が決定されたという(内容は不詳 新北海 昭22・3・16)。
 公区・連合公区は、告示第三七号によって同年三月三十一日をもって廃止された(広報 昭22・5・10)。廃止の時点で、市内には二八〇の公区があった(五・六期小史)。市民会が、それに代わって四月一日に発足したのである。しかし、市民会は発足後すぐに解散することになる。
 日本国憲法施行の日である同年五月三日、連合国総司令部の要求により政府は政令第一五号「昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く町内会部落会又はその連合会等に関する解散、就職禁止その他の行為の制限に関する件」を発した(自治史)。この中で、「従前の町内会部落会若しくはその連合会又は隣組の解散後において結成されたこれらに類似する団体」は五月三十一日までに解散しなければならないとされたのである(第六条)。当然、市民会もこれに該当した。市民会がどの時点で解散となったか正確には不明だが、五月中旬には解散したと思われる(道新 昭22・5・15)。