改選後、まず議長選出をめぐって、福島利雄議員を推すグループと斎藤忠雄議員を推すグループの両派が対立し、保守系議員のみで非公式の投票が行われた(道新 昭30・5・5)。この結果、前半二年を福島議員が、後半二年を斎藤議員が議長を務めることとなり、本会議の議長選では保守系一致で福島議員が議長に選出された。この過程で、会派構成は、第一議員倶楽部一九人(福島派)、公友会一八人(斎藤派)、社会党八人、労農党一人、共産党一人、無所属一人となった。第一議員倶楽部は前職、元職が多く、一方公友会は旧鐘風会を母体に旧第一議員倶楽部から脱会した者(民主党市議二人含む)と合併された篠路村・琴似町・札幌村の旧町村地域の新人市議などが合流して結成された。
昭和三十年十一月一日、福島議長が死去し、後継議長の選出問題をめぐって保守系二会派で対立が生じた。九月に公友会・社会党によって市長提案の振興会社設立案が本会議で否決されており、保守派の対立によって革新系がキャスティングボードを握ることを懸念した一部議員が保守系両派から脱会して新たに中正会を発足させた(道新 昭30・11・29)。中正会は両派を斡旋して本会議での決選投票を回避し、斎藤忠雄が議長に決まった。これにより、一二人ずつ議員をもつ保守三派が並び立つこととなった。
三十二年四月に、副議長・監査委員の改選問題が生じた。この時は、第一議員倶楽部・中正会と公友会・社会党・諸派の対立となり、前者から脱落者が出て、後者の推す斎藤義太郎(第一議員倶楽部)が副議長に選出された。六月には市長提出の藻岩山観光有料道路建設案が、議案審査特別委員会で公友会・社会党・共産党によって否決された。こうした状況の下、保守派議員の中に保守合同の動きが生まれ、九月九日公友会に中正会から五人、第一議員倶楽部から一人が加わって公正クラブ(一九人)が発足した(道新 昭32・9・10)。