昭和四十二年(一九六七)四月、第六回統一地方選挙が実施された。四月二十八日に行われた市長選では、市議会の保守派から支持され、自民党・民社党の推薦を得た原田與作が、社会党の塚本肇(党札幌支部執行委員長)、共産党の阿部勘吾を破り、三選された。得票数は、原田一八万三一〇六票、塚本一四万一九五五票、阿部八六二六票であった。原田と塚本との得票数差は四万一〇〇〇票で、人口が大きく増加している今回の方が前回よりも差が縮まった。今回の選挙でも原田派は後援会を組織し、塚本派は労働組合が主力となった。原田派は自民党の大臣クラスの代議士を応援に呼び、社会党も飛鳥田一雄横浜市長など著名な政治家を動員したのが特徴であった。
市長選と同時に実施された市議選では、定数六〇人(前回より四人増)に対して、九五人が立候補した。結果は、自民党が改選前議席数から一議席を失って二一議席となり、社会党は三議席増の一六議席と躍進した。公明党は前回の倍の八議席となり、民社党も一議席増やして二議席、共産党は三議席で変化なしとなった。無所属は三議席減って一〇議席と、その数をかなり減少させてきた。革新派(社共)が一九議席となって前回よりもさらに進出した。また公明党の躍進によって市議会の多党化現象が鮮明になった。
四月十五日に行われた北海道知事選挙では、町村金五(自民党)が塚田庄平(社会党)を五〇万票以上の大差を付けて破り、三選された。同日の道議選は、全道では自民党六〇、社会党三七、公明党二、民社党一、共産党一、無所属四、札幌市では自民党八、社会党五、公明党二、共産党一という結果であった。
改選後、市議会で会派結成が行われた。今回は、自民党で立候補し、当選した者は一つの会派にまとまり、自民クラブ(二二人)を結成した(後に自由民主党に改称)。無所属議員は民社党議員二人と新政クラブ(一一人)を結成した。他の会派は、社会党一六人、公明党八人、共産党三人であった。保守派が依然多数を占めるとはいえ、今回は副議長が初めて社会党から選出された。